研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

アビゲイル・アダムズ考(1)

2005-10-18 23:43:20 | Weblog
歴史を研究する場合、資料批判という営みが必要になる。この資料批判にはいろいろな段階があり、一番科学的でそれ自体が研究成果といえるのが、その資料の真偽を検討する場合であろう。これは問題がない。ただ、やっかいなのは、解釈にかかわる問題である。その例として、アビゲイル・アダムズをどのように位置づけるかという問題がある。

アビゲイル・アダムズとは、合衆国第二代大統領ジョン・アダムズ夫人である。彼女は、アメリカ史上最初のフェミニストとされている。その根拠の一つが夫のジョンに宛てた次の手紙である。

・ ・・きくところによると、最近皆様方は合衆国憲法をおつくりになっているようですね。・・・そこでお願いがあるのです。その憲法の中に女性の権利を明記していただきたいのです。・・・私たち女性は、これまでの歴史でずっと男性たちに虐げられてきました。・・・男性の性とは、それ自体が暴力的なものです。・・・女性は、男性の専制権力のもとに隷属させられてきました。『独立宣言』には、「すべての人間は平等につくられている」と明記してあります。この人間の中に女性をいれてほしいのです。・・・・もし、この願いがききとどけられないのならば、私たち女性は独立軍を編成し、男性たちに宣戦するでしょう。

なるほど。この資料だけを読めば、彼女はアメリカ・フェミニズムの母であろう。しかし、ここはもう少し慎重になったほうがよい。ここで少しアビゲイルの経歴を検討してみよう。

アビゲイルは、ウイリアム・スミスというブレイントリーの牧師の娘である。このスミス家とは、あの「ピルグリム・ファーザーズ」のメンバーの一員ウイリアム・スミス(スミス家にはこの名前の男子が多い)の末裔であり、マサチューセッツきっての名門であった。ピルグリム・ファーザーズとは、英国国教会分離派の人々で、自分たちの信仰を守るためにメイフラワー号に乗りアメリカにやってきたニュー・イングランドでは最初の成功した移住者たちである。彼らが、上陸に際して結んだ「メイフラワー誓約」というのは、アメリカ史上最初の自発的統治契約としてその名を歴史にとどめている(実はこれには入り組んだ事情があることは、すでに研究史の常識になっているが、ここでは煩瑣なので省略する)。実際にはメイフラワー号にはさまざまな人々が乗っていたのだが、ウイリアム・スミスは、その幹部メンバーであり、それゆえスミス家とは、いわば高天原に降臨した神々の末裔みたいな存在であった。よく、「アダムズ家」とはアメリカの名門とされているが、アダムズ一族が「名門」となったのは、実はジョン・アダムズからであり、アダムズ家自体はもともと生活に困らないていどの中流家庭であった。アダムズ家が名門になったのは、ブレイントリーで弁護士をやっていたジョンが、アビゲイルと結婚し、スミス家と親戚関係に入ってからである。ジョン・アダムズの政治的栄達の道は、まず彼個人の才覚に先立って、このアビゲイルとの結婚による名門の仲間入りという手続きが必要であった。彼らは、基本的にイギリスの社会・文化を持っていたということは押さえておいたほうがいい。

アビゲイルについて注目すべきなのは彼女の教養である。あの当時、女が文字を読み書きできただけでも脅威であるが、彼女の教養は半端ではなかった。ベンジャミン・フランクリン、ベンジャミン・ラッシュ、トマス・ジェファソン、ジェイムズ・マディソン、ジョージ・ワシントンといった名だたる名士たちと書簡をやり取りし、堂々たる政治議論を展開している。後に彼女は、アダムズ政権の頭脳と呼ばれ、例えば「外国人・治安法」というアメリカ史上最初の治安立法にサインすることをためらう夫のジョンにサインをうながし、その治安立法をもって、敵対党派のアルバート・ギャラティンを討つべしと進言している。面白いのは、夫の仕事に口を出す分際をわきまえない女という風に周囲が見ていなかったことである。例えば、クリントン大統領夫人ヒラリーについては、皆がその能力の高さは認めつつも、「雌鳥が鳴くと国が傾く」とか陰口を言われたが、アビゲイルの場合、普通に男性たちが頼りにしその意見を求めた。

ところで、アビゲイルの「教養」の性格とはどんなものだったのだろうか。それは、基本的に父親に仕込まれたプロテスタント神学であった。つまり、この時代の男性知識人が好んで学んだ啓蒙哲学ではない。彼女は神学で頭脳を鍛えた。神学で鍛えた頭脳で政治を学んだ。そういうわけで、彼女は基本的に「女の祖先イヴは、アダムの肋骨から作られた」ということを聞かされて育っている。どのていど信じていたかは確かめようがないが、幼いころはそう頭に叩き込まれている。少女時代のアビゲイルは、肖像画から推測するに実に可愛らしいお嬢様であった。行動において男勝りという噂はなかった。ただ、ジョンが現れるまで、自分を凌ぐ能力の男に出会ったことがなかったというだけである。

アビゲイルが、生涯で二度ヒステリーを起こした記録が残っている。それは、夫と移り住んだ当時のホワイトハウスの湿気があまりにひどく、洗濯物が乾く前にカビがはえてしまったときと、ホワイトハウスに巨大なゴキブリが現れたときである。ちなみに、アダムズ夫妻は、最初にホワイトハウスに住んだ大統領夫妻である。