研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

北海道論(2)-二つの北海道

2010-03-06 22:41:15 | Weblog
北海道民にもっとも欠けているのは、言うまでもなくフロンティア・スピリットである。

歴史的構造上、北海道民にそんな精神があるわけがない。「試される大地」とはよく言ったものだ。何が悲しくて試されなきゃならんのか。

私が仕事で東京や関西方面に出張して、一番ぎょっとするのはホームレスの存在である。稚内出身の私は、大学院に進学して、頻繁に本州を訪れるようになって初めてホームレスを見た。北海道にはそんなものはいない。凍死するからだ。夏にホームレスになっても秋の終わり頃には、現世からいなくなる。

本州の残虐な習慣に村八分があったが、村八分になる人間が確認されるためには、村八分になった人間が生きていなければいけない。しかし開拓期の北海道の場合、村八分になることは、死ぬことを意味する。だから村八分になるような行動様式はとらない。本当はいたのかもしれないが、この世にいないので確認できない。コロニーの中にしか人間が生きられる空間はないのだ。そしてコロニーの外に人間性は存在しない。では、コロニーの中ならどうか。北海道の田舎に身体障害者は一人もいないとだけ述べれば十分だろう。付け加えることは何もない。都市とは、自然状態では生きていられなかったはずの人間が生きていける世界だということだ。だから人間的精神は、都市にのみ存在する。

北海道とは、コロニーの束である。コロニーとコロニーの間には、大自然の空間が存在する。この空間がいかに恐ろしいかを想像してほしい。私にとって、自然とは恐怖以外のなにものでもないのだが、この辺の感覚は、とにかく住んでみなければ分からないかもしれない。「自然との共生」など語義矛盾もいいところだ。人間が生きられないから「自然」なのだ。生きるためには自然から逃れるか、自然を征服するかしかない。

北海道開拓史は、凍りついた死体で埋め尽くされている。私が小学校の頃に与えられた道徳の時間の副読本『わっかないの歴史』の年表をみると、サムライたちが凍死する話が延々と記されていて陰鬱になる。藁を胴体に巻き、その上に着物を着て、さらにその上に藁を巻き、熱いコーヒーを飲んだ翌朝、凍死体となる。そんな記述が100例もあり、そういうわけでその副読本は道徳のテキストとしては使い物にならなかった。

北海道開拓は、当初二種類のやり方が併存した。一つは、慶應義塾出身の依田勉三がやったような合資会社(晩成社)方式の民間人による開拓。もう一つは、政府主導の開拓。前者はおもに十勝方面に入植し、後者は旧松前藩の函館から小樽~札幌方面で進められた。

依田勉三の晩成社がいかに悲惨なものとなったかは、気が滅入って描写できない。分厚い氷につるはしを打ちつけて耕作地を作ろうとする様を想像するだけで生きる気力がなくなる。明敏な依田は、北海道で生きるには「大和民族」のスタイルは無理だと判断した。彼はこの極寒の地で生き抜いてきたアイヌ人のスタイルに学ぼうとする。アイヌの民族衣装に身を包んだ依田の写真が残っている。しかし、アイヌ人のスタイルを取り入れた段階で、近代化への切符を諦めたも同然なのだ。

あえて言うのだが、私は依田勉三が北海道開拓に貢献したとは思っていない。事実十勝は、明治政府のパワーによって日本人の住む空間になった。依田の努力が実を結んだのではない。明治政府の物量で十勝は拓けたのだ。しかし、なんらかの気質は残ったことは認めざるを得ない。彼に示される入植団の気質は、北海道の中に「日高山脈の向こう側」的なるものを形成する。

北海道は二つ存在している。それは「札幌圏」と「日高山脈の向こう側」の二つの北海道である。「日高山脈の向こう側」というのは、具体的には帯広周辺と釧路周辺を指す。「札幌圏」とはそれ以外の北海道すべてを指す。ちなみに稚内も札幌圏に含まれる。旭川も当然そうだ。ただし函館圏については、事情が少々複雑なので後述する。

釧路については、私は何も知らない。何人かの釧路出身者には会ったことはあるが、彼らの特徴は釧路の思い出を何も語らないことにある。口を閉ざしているのではない。語ることがないのだ。釧路人は釧路を憎んですらいない。釧路のことを聞いても釧路出身者はぽかんとした顔をする。

それと比較すると帯広人は大きく異なる。帯広人は帯広を深く愛するか、激しく憎む。ただし注意しなければならないのは、帯広人を帯広以外で見かけることは少ないということだ。帯広人の多くは、その人生を帯広で終える。30万人の独立共和国が帯広である。それは北海道の中の北海道である。日高山脈の向こう側にほぼ無限に広がる平野。雲ひとつない空の凄まじい圧迫感。個人の野心などあっというまに消えうせる。残るのは無力感。明治維新の志士たちが、日本の中でも濃密な因習濃きド田舎から輩出されたことを考えてみると、人間の志を育成するのは、手ごたえがあり克服可能な遮蔽物なのだと分かる。だから私たちが目にする数少ない帯広出身者は、この帯広の運命から離脱した特殊な人たちなので、実は彼らの口にする「帯広」も括弧付になる。

要するに、「釧路と帯広についてはよく分からない」。まるで依田勉三の功績のようだ。

日本国民としての北海道民の存在は、「札幌圏」において可能となる。それは中央政府の直轄地である。



※「ただし函館圏については、事情が少々複雑なので後述する。」という一文が落ちていたので、付け加えました。