研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

パクス・アングロ・アメリカーナの始まり(1)

2005-09-21 20:15:52 | Weblog
いうまでもなく、アメリカはもともとイギリス連邦帝国の植民地であった。入植活動が軌道に乗ってから独立するまでの約160年間、この「北米諸植民地」は、基本的にイギリスの庇護のもと外交そのものを「免除」されていた。彼らの対外活動は、イギリスの航海法の規制の下での貿易と、イギリスの植民地に対する「有益なる怠慢」の下で行われた密貿易であった。しかるに、1765年印紙税法以降、この平穏な日々は終わりを告げ、反英抗争が始まり、1776年の独立宣言から1782年パリ講和条約調印までの間、「革命外交」が展開される。

「革命外交」とは、北米諸邦の人々が、自らを反逆者の立場から救うためになされたものであり、ベンジャミン・フランクリンがこれを担当した。彼らのイギリス本国との戦いは、法的には戦争ではなく内乱であった。イギリス臣民である彼らの一方的な独立の宣言は、法的には「反逆罪」である。敗北すれば待っているのは絞首刑である。それゆえ、彼らが反逆者という不名誉な立場から逃れるためには、その独立を他国から承認してもらい、その証しとして、他国との同盟関係を結ぶ必要があった。こうして、ジョージ・ワシントンの大陸軍がアメリカ大陸を8年にわたり転戦している最中、フランクリンはフランス、スペイン、オランダ、ドイツ諸邦、イタリア諸邦、ロシア、デンマーク、スウェーデンなどヨーロッパ大陸において縦横無尽の外交活動を展開し、アメリカ大陸内で展開されているイギリス帝国の内戦をあれよあれよという間に国際戦争にしてしまった。

ジョージ・ワシントンの大陸軍は、イギリス軍に対し、当初は連戦連敗であったが、次第に拮抗する勝負をし始めるようになっていた。特に、アメリカ在住者で構成される忠誠派軍(イギリス側)は確実に撃破されていった。こうした中でフランス、スペイン、オランダは正式に同盟を結んで参戦しはじめ、さらにロシア、デンマーク、スウェーデンまでが、イギリスへの攻撃を開始せんとしていた。まるでフランクリンがヨーロッパから次々と刺客を送り込んでいるようであった。そしてついにヨークタウンの戦いの辺りでは、イギリスはフランスに大西洋の制海権を奪われ、北米大陸で転戦するコーンウオリス将軍への補給も途絶えた。1781年、ヨークタウンの戦いでコーンウオリス軍はとうとう惨敗を喫し、イギリスは完全に追い詰められた。ここにいたって、イギリス政府は講和に傾く。より正確には、主戦論派が政権を退き、フォックスやエドマンド・バークらの講和派が主導権を握ったのである。気味悪いことに、彼らはみなフランクリンの親しい友人であった。

しかし、強国にとって「追い詰められての講和」というのは、実は難しい。自尊心を抑えて、植民地と講和することを国民に受け入れさせるには、有利な条件が必要であった。つまり、アメリカとの戦いを止め、アメリカの独立を認めるためには、この戦争でもうひと頑張りしなければならなかった。そして、実際にそれに成功した。ヨークタウンでは惨敗したが、イギリス軍は依然として、ニューヨーク、サヴァナ、チャールストンを支配していた。一方大西洋においては、イギリス海軍は反撃を開始し、スペイン海軍のジブラルタル海峡封鎖を解除せしめ、さらにインド洋でも勝利し、セインツの海戦でハウ提督は、フランスのド・グラス艦隊を壊滅させ、とうとう西インド諸島の制海権を完全に回復したのである。まさに、ヘロヘロになりながらも、名誉ある講和交渉を開始する環境をイギリスは自力でつくった。このあたりはさすがと言わねばなるまい。

こうして1782年、フランクリンの提案により、パリに関係諸国があつまり講和交渉が開始した。・・・関係諸国・・・同盟国フランス・・・・。なんということであろうか!交渉は、アメリカとイギリスとの間でとんとん拍子に進んでいく。アメリカ以外の国々もイギリスに何か要求しているようだが、イギリス代表トマス・グレンヴィルは、冷笑とともに聞き流した。イギリスは、アメリカの即時独立・主権の承認とイギリス軍の全面撤退をあっさり認めた。そのかわり、カナダのイギリス領残留をアメリカに認めさせた。さらに、イギリスとアメリカは、ニューファンドランド沖の漁業権協定まで結んでしまった。もとより、貿易は再開される見通しであった。滑稽なことに、フランス代表ヴェルジェンヌは、「イギリスは和解するというより、平和を金で買っている。その譲歩ぶりは、可能と思われる限度を超えている!」と言ったという。フランス人の見通しのまずさは昔からである。