研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

北海道論(4)-城塞の中の日本

2010-03-14 16:56:38 | Weblog
はじめに役所があった。しかる後にコロニーが現れた。

北海道の歴史を考察する際に、押さえておかなければならないことは、原野にサムライが役所を建てて、その後に移住民が入ってきたことである。まず地域社会が存在し、その上に役所が乗っかった本州とは、スタートが違っている。北海道開拓は、サムライたちが始めた。蝦夷地時代の人的移動はいざ知らず、北海道の歴史はサムライから始まった。

北海道の主要産業は役所だというのは、もちろん批判的文脈の中で語られるのだが、内実はもう少し深遠なものである。北海道、ことに北海道の僻地に住んだ経験のある人なら分かると思うが、役所(あるいは役場)に入ると、ほっとしてヘタヘタと座り込みたくなる。そこは、まぎれもなく、普遍的言語が通用する場所なのだ。確かに変な役人はいる。個々の役人が立派なわけではない。それはそうなのだが、とにもかくにも、あるべき論理が、いちおう「べき論」として、まともな会話が成り立つ場所なのだ。近代とは、なんと素晴らしいものなのだろうとさめざめと涙が出るような気分になるのが役所だ。

能力以外の人間の性質が生まれながらに違うわけではない。それは「システム」の違いだ。属しているシステムが、役所とコロニー内部では違うのだろう。

開拓移民団について大雑把な話をすると、「札幌圏」の場合は、明治政府の募集に応じた人々が多くは村落単位で入植事業団に参加した。個人参加は極めてまれな例だ。「日高山脈の向こう側」には、酔狂な個人単位も少なくないそうだ。「子爵家の三男」を名乗る変な人間がたまにいる。だから北海道の各地は、本州の文化がまだら模様に点在する形になっている。例えば「北広島市」は、広島県出身者が入植した土地なので、広島県にしかいないような苗字の人がここにだけいたりする。

では、多様な文化的背景の人々が入植した北海道の文化は豊かなのか、といえば私は「豊かではない」と断ぜざるを得ない。文化とは、その土地の歴史に根差した固有の様式および体系である。だから気候風土と切り離しては存在できないし、入植した人々は、競合する他の文化との衝突を回避するためにその文化的背景を消し込んだ。特に明治新政府創設期である。共通語の創造に示される規格化の方針のもと、開拓移民の各人が有していた文化的背景は消滅する方向で進んだ。特色は邪魔だったのだ。例えば島根県の文化様式では北海道では生活できないし、和歌山県の文化は、極寒の地を想定していない。開拓に必要なのは規格化であり、創意工夫よりは物量である。端的にそれが表れているのが建築様式であり、北海道では瓦屋根はあり得ないし、通気性よりも断熱性が決定的に重要である。青森県と比較すると、函館の建物は城塞のようである。

この「城砦のような」というのが、あえて言えば北海道の文化枠組みである。文化は城塞の中にのみ存在する。城砦の外に文化はない。少なくとも、「日本文化」は城塞の外にはなかった。そして城砦は、日本文化の先兵である。辛抱強く自然を砕き、城塞の壁を拡張していく。それは「日本文化」を拡大していくことだ。この方式が、依田勉三型ではない、中央政府のやり方である。そして厳しい自然環境には、それのみが有効だった。本州とは違うこのスタイルは、本州のような文化をつくる唯一有効な方法だった。開拓者が北海道に求めたのは北海道ではない。「日本」だ。その手段として文明の利器があった。

だから札幌農学校は中央政府直属の機関として理解すべきである。北海道民にとっては「地元の学校」ではない。札幌農学校については根本的な点で誤解が定着している。最大の誤解は、「優秀な少年が、開拓の夢のために『あえて』、札幌農学校に進んだ」という表現に示される。違うのだ。全然違うのだ。当時の札幌農学校は、とんでもないエリート校だったのである。東大よりも早く(つまり日本で最初に)学士授与を行った学校であり、創設期には、京都大学など影も形もなかったころの本格大学だったのだ。卒業生は官職を保証され、それは留学への最短距離であり、旧制高校教授にもなれた。現在の北大生などとはまったく別人種の秀才集団だったのだ。「あえて」進学するような学校ではなく、立身出世のために勇躍進学するのが札幌農学校だったのである。そうでなければ、卒業生があんなに優秀であったことを説明できないではないか。皆が皆、歴史に名を残しているのだ。

こうして北海道は、城塞を通して開拓された。最大の城砦は「開拓使」だったが、各種役所やその他学校機関も基本構造は変わらない。城砦という文明の中にのみ文化は存在し、それはまっすぐに東京につながっている不思議なトンネルであった。知識ある人々は、このトンネルを通して東京と北海道を行き来し、北海道そのものに対しては、あたかも籠城するように生活してきた。籠城しながら、忌まわしい自然と戦った。寒いことそれ自体が忌まわしい。「もっと火力を!」。あの針葉樹林を焼き払って、舗装して、交通網を作れば、日本に近づく。「だからもっと火力を!」。資源を要求するのはエリートの責任である。

稲作文明の継承者たる知識人たちは、津軽海峡を超えると、針葉樹林を焼き払う。稲作と同じ精神で、舗装道路をつくる。

関東出身の工学部の友人にこんな話をすると、明敏な彼はこう言った。
「つまり、大学にいるという段階で、私は北海道住民ではないのですね」。
私は答えた。「そういうことです。私は北海道で生まれ育ちましたが、故郷はあくまでも東京です」。

1 コメント

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Unknown (吉田向学)
2010-05-15 12:27:14
はじめて拝見させていただきました。地域学としての<北海道学>の萌芽がそこにあるような文章で、痛く感銘させられました。
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