研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

UtilityとPracticalの間(2・完)

2005-09-14 23:11:09 | Weblog
なぜこのような反応を生んだのだろうか。まず、考えられるのは、もともとアメリカは辺境の開拓地であり、荒野の開拓という具体的な経験のみをもっていたところから、「自由」「独立」「権利」「財産」を目指した彼らが求めていたのは、むしろ抽象的な理念だったというのがある。封建法と教会法という牢獄から解放されることを願ったヨーロッパの人々と異なり、自分たちの所与の自由の正当化を求めたアメリカの人々とでは、最初の動機が違った。ヴァージニア州憲法修正会議の議事録においてある代表者はこういっている。「我々の政府はPrincipleの上に打ち立てられたものなのか、それともExpediencyの上に打ち立てられたものなかの?すなわち、原理という強固な基礎の上にたてられ、その原理のもとで賢明で愛国的な市民が判断を下す対象なのか、それとも便宜的手段という沼地に立てられたものなのか?」

「言葉」・「概念」というものが、意識的に打ち立てられた新しい国家には重要なことであった。ベンサムの思想は、彼らに行為や判断の正当化根拠にはならなかったのである。イギリスにおいて政府はあくまでも道具であり、政府それ自体の目的は問われなかった。しかし、植民地あがりの民主社会では、政府の設立はそれ自体政治哲学的議論が必要であった。それゆえ、建国期の諸文書(独立宣言、成文憲法など)が聖典化し、その言葉は動かしようがなく、またその言葉はいつも抽象的であった。また、この時期のアメリカの政治活動家に法律家(弁護士)が非常に多かったことも重要である。英国議会の圧倒多数が地主階級であったのに対して、アメリカにおいては南部においてさえ、弁護士になることが官職への近道であった。彼らにとって法は、便宜的操作の対象ではなく、権利を擁護する上での基盤であった。

そして、アメリカを考える上で絶対に外せないのが、信仰復興運動(リヴァイバリズム)である。これは、アメリカ史のなかではナイル川の氾濫や長江の氾濫のように定期的に訪れているもので、アメリカにベンサムの思想が入り込んだ時代は、イギリスが産業革命の時代であるのにたいして、アメリカは信仰復興の最中だったのである。福音主義的ピューリタニズムは言葉こそがすべてであった。まさにこのコロラリーとしてアメリカ革命がある。革命において大衆を動員するには、言葉こそが有効な道具であった。いわば、抽象的・概念的・曖昧な言語の方が、アメリカ人にとっては「有用」であったのである。

しかし、ベンサム思想がアメリカに紹介された19世紀初頭という時代に注目する必要がある。それはちょうど、プラグマティズムが誕生した時期なのである。功利主義を全面否定した時期にプラグマティズムが誕生している。どうやら両者は、一見似ているが出所が違うようである。この辺りを解明する鍵は、リチャード・ホーフスタッター(Richard Hofstadter)のAnti-Intellectualism in American Life(New York: Knopf, 1963)にある。

ホーフスタッターは、同書において、アメリカにおける「反知性主義」は、コモン・マンの思考様式であるとした上で、そのコモン・マンとは、福音主義と平等主義をドグマとする社会において形成される人間であるとしている。彼らは、普遍的な人間一般ではない。彼らは、彼ら以外の社会を受け入れないし、彼ら以外の社会で形成された知性を認めない。開き直りではなく、深い自信をもって、ヨーロッパの知性を拒絶し、彼らの社会での成功のみを善しとする。こうしたコモン・マンが日常生活において判断し行動する基準とは、practicalであるかどうかである。彼らが拒絶し否定するのは、practicalではない知性である。そして、こうした思考様式を哲学にまで高めたものがプラグマティズムであるとしている。すなわち、その起源は、アメリカという風土においての有用性のみを問題とする哲学である。

Utilityとは、ベンサムのイギリス以外でも妥当する概念である。それゆえ、エカテリーナ2世のロシアにおいても妥当し得る。しかし、Practicalは、ある特定の社会においてのみ妥当する概念である。もちろん、ウイリアム・ジェイムズもジョン・デューイも学者であるから、その哲学を普遍的なものに仕上げるつもりでいたのだろう。しかしながら、彼らの主張はあくまでもアメリカ社会を前提としたものである。彼らの提言の中で、その民主的社会以外で通用するものはないのである。彼らの書物はエカテリーナ2世のロシアでは、なんらの効力ももたないのである。

それぞれの社会、それぞれの文化集団には、それぞれのpracticalが存在し、それがutilityと重なることはあるだろう。しかしながら、もちろん両者は別のものである。ただ、問題は、アメリカ合衆国が巨大になると、アメリカにおけるpracticalityがアメリカ以外の世界にも採用することを余儀なくされ得るということである。最後に陳腐なことを言うならば、グローバリズムが歪みを生むとしたら、この異国のpracticalityに適応しなければ、自国においても存続しようがなくなるということであろうか。要するに、グローバリズムとは、“practicalities”の選択の余地がなくなるということである。