研究生活の覚書

研究していて、論文にするには届かないながらも放置するには惜しい話を書いていきます。

遠くから斉藤眞先生を見て

2008-01-18 02:51:08 | Weblog
斉藤眞先生が亡くなられた。

私の研究者人生は、斉藤眞先生の『アメリカ革命史研究』およびその他の論文に魅了されたときから始まっている。だからその死に対して、「年齢的にはしかたない」という言葉ではあきらめのつかない、ちょっと理不尽なほどの動揺を感じている。誰も、斉藤眞先生を超えていなかった。権威でとかではない。斉藤先生の著作は、つい今しがた筆を置いたばかりの絵画のように瑞々しかった。まるで古びる様子がない。

アメリカ革命史研究で、アメリカ人の学者の水準を凌ぎ、かつ日本を考える上で、そのまま有益となるような著作を残した方は、斉藤先生のほかにはいなかったんじゃないだろうか。建国史のような基礎研究が、現在アメリカの政治・外交の分析にそのまま使用できるのである。極論するなら、『アメリカ革命史研究』を読み込めば、現代の政治・外交の理解は、その応用みたいなものなのだ。新しいデータさえくれたら、選挙でも、外交でも、経済でも、文化でもなんでも書けと言われれば書けますよと。でも建国史知らない人は、その逆の芸当はできませんよと。そう思い込んでしまうほど、斉藤先生の研究は桁外れだった。まるで次元が違っていた。それで私は、現代アメリカにおける諸事は、ジャーナリストやアメリカ通に任せておけばよい。学者である自分は、建国史という根っこをやろうと、ここが分かれば、あとは全部統一的に理解できると、今から思えばそれは明らかに極端でさらに本末転倒であり、斉藤先生の見解からかけ離れている思い込みだろうが、私はそこまで崇敬してしまっていた。

政教分離を議題にしたある研究会の折、私は斉藤先生に、「ジェファソンという人は、救いを予定されていると思っていたのでしょうか。自分の来世の魂の処遇をどのように認識していたのでしょうか。私には、全部分かってて沈黙したようにも見えます。」と不躾な質問をしたことがある。斉藤先生は、にっこり笑って、「わかりません」と仰った。プロテスタントの教えを受け入れていた斉藤先生の魂は、今何を見ているのだろう。縁の薄い自称孫弟子の私は、喪失感でいっぱいである。あの方の学は、あまりに深く高く厚い。