猪名川町の寒天づくり
猪名川町にある糸寒天の製造所では、約4000平方メートルの休耕田を利用して糸寒天の天日干しが行われています。
糸寒天は、海藻のてんぐさを煮たものを細く切って一晩凍らせたあと、屋外で2週間乾燥させて作ります。
冬季の農閑期には盛んに寒天作りが行われていたが、現在では1軒のみだという。
糸寒天は、海藻のてんぐさを煮たものを細く切って一晩凍らせたあと、屋外で2週間乾燥させて作ります。
冬季の農閑期には盛んに寒天作りが行われていたが、現在では1軒のみだという。
寒天は伏見が発祥の地(歴史研究グループ「伏見城研究会」2017.03.01 伏見経済新聞HPより)
「寒天は江戸時代前期、伏見御駕籠町の美濃屋太郎右衛門の手代(てだい)が、心太(ところてん)を外に置き忘れて凍らせてしまい、それが乾燥した状態で発見するという、偶然の産物でできた。この発見により、総本家駿河屋で伏見名物の煉羊羹(ねりようかん)が誕生するなど、伏見の歴史や食文化の形成に密接に関わってきた」(植野伝次郎商店の植野彰さん)
1658年江戸時代初期、徳川4代目将軍家綱公の時代の冬の日、薩摩藩主の島津候が参勤交代の途中に山城の 国伏見の御駕籠町(現在の京都市伏見区)にある美濃屋太郎左衛門が営む旅館「美濃屋」に宿泊したことから 寒天の歴史は始まります。
美濃屋のおもてなしの料理の中にテングサを煮て作ったところてん料理がありました。 その際に残ったところてんの一部を外に捨て置いた所、真冬の寒さで夜のうちに凍結し、日中は解凍され、数日間放置しておくと 乾燥して干物になりました。
太郎左衛門はこれを興味本位で水と一緒に煮て放置してみると、ところてんより白く、当時のところてんと 比べて海藻臭がしないところてんでした。
これが寒天製造方法の最初の発見で、その後種々の研究の末、寒天の製造方法を発見するに 至ったと伝えられています。
最初は美濃屋の独占、 後に2軒加わったそうですが独占体制に変わりはなかったようです。
(詳細がKKタニチのhpにかいてある)
寒天のつくり方
寒天はてんぐさ(海藻)が原材料。太陽に当てて天日干しにすると、紫外線で色素が脱色されて3日ほどで透明になる。これを湯で煮た煮汁を凍らせてから解凍させると、水分が抜けてゲル成分が残る。このゲル成分が寒天
大阪の高槻などに広がっていく。
きっかけは 1781年、宮田半兵衛が伏見の水菓子屋に行き、美濃屋で寒天製造法について学び、寒天作りの技術を習得。
現在の高槻市で製造器具など技術革新により良質の寒天を作るようになりました。(KKタニチのhpより)
「城山寒天(しろやまかんてん)」と称され、江戸時代後期に最盛期を迎え、大坂の豪商尼崎又右衛門の管理下で長崎から海外にまで輸出されていました。
きっかけは 1781年、宮田半兵衛が伏見の水菓子屋に行き、美濃屋で寒天製造法について学び、寒天作りの技術を習得。
現在の高槻市で製造器具など技術革新により良質の寒天を作るようになりました。(KKタニチのhpより)
「城山寒天(しろやまかんてん)」と称され、江戸時代後期に最盛期を迎え、大坂の豪商尼崎又右衛門の管理下で長崎から海外にまで輸出されていました。
1860年代、寒天作りは関西で寒天作りを見た諏訪の行商人(小林粂左衛門こばやし くめざえもん)が、寒さが厳しい諏訪地方の農家の副業にと、その技術を持ち帰り長野県の諏訪地方でひろがった。
明治以降高槻のかんてんづくりは衰退、能勢などの周辺の山間部に移る。
兵庫県西宮市船坂でも、高槻から寒天づくりを学び、明治18年(1885)頃から寒天づくりが始まり、昭和初期にピークを迎えたものの、平成10年(1998)頃を最期に全工場が廃業した。
兵庫県西宮市船坂でも、高槻から寒天づくりを学び、明治18年(1885)頃から寒天づくりが始まり、昭和初期にピークを迎えたものの、平成10年(1998)頃を最期に全工場が廃業した。
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