明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

常磐線の運転士

2017-11-17 18:00:00 | 科学・デジタル
今日電車に乗ったとき空いている座席がなかったので、一番前の運転席の後ろで景色を見ることにした。運転士は女性で、マスクをしていて顔は分からなかったが若いように見えた。ラッキー!。しばらく彼女の動作を見ていたら、通過する信号機すべてに指差し確認を行っている。ほぼ100m間隔にある信号機だから結構忙しい。ちょっとスピードメーターを見たら100キロ出ていた。街中を100キロで走ったら相当速い。レールの上なので真っ直ぐ走るのは心配ないが駅でピタリと停車位置に止めるのは熟練が必要だと思って、松戸に停まるとき操作手順を確認したら、別にどうってことなくスムーズに停車した。車の運転とどう違うかと聞かれても答えられないが、多分大したことはないと思う。それよりは進行速度を計算通りに速くしたり遅くしたりして「駅に到着する時間を時刻表通りにする」ほうが、大分難しいように思う。が、それも1ヶ月もすれば慣れてきて簡単にできるようになるんじゃないかな。大した技術じゃないのだ。

だが「居眠りしない」とかの人間的なことは、簡単にはなくせない。車と違ってハンドル操作が要らないので「決められた通りにしか進まない」ことが逆に運転を難しくしていて、なにもすることがないので「眠くなってしまう」のだろう。この女性運転士もずっと何かの確認作業をやっていた。やらないと飽きてきて窓の外の景色を眺めたりして、ついつい「よそ見運転」しかねないと想像した。やはりこういう仕事は「2人」でやるのが安全である。よく高速バス運転手などが「仮眠要員」と交代制で運転しているが、眠気というのは「人間に課せられた試練」である。趣味が高じて運転中にもスマホゲームをやると言うのは論外であるが、一度や二度眠気に襲われた経験の無い人はいないだろう。私も関越道を朝早く走っていて眠気に襲われた経験がある。走行中にガードレールが段々近寄ってきてぶつかりそうになるのだが、他人事のように「近づいてくるなー」とぼんやり考えていて、運転している自覚がまるでないのだ。ふと我にかえって慌ててハンドル操作をするのだが、また夢うつつの状態に戻ってしまう。

結局は高速をおり、一般道を走って信号待ちの時、ブレーキを踏んだまま居眠りをしてしまい、前の軽トラックに追突してやっと目が覚めた。どうも居眠りしそうで危ないから今日はやめようと思ったようだが、追突するまで目は覚めなかったのである。実際に事故るまで相当の距離を走っていたのだから、事故っていてもおかしくない。シートベルトも無かった頃なので、死んでいたかもしれないのだ、恐ろしいことである。しかし相手が軽とは言え業務用だけあってさすがにトラックは頑丈である。後ろの荷掛けフックに我がカルタスのボンネットがぶつかって、物凄い「ドッカーン!」という音で目が覚めたのだが、人身事故を起こさないで本当に良かったと今振り返っても冷や汗が出る。それ以来、ゴルフで朝早く家を出るなどという眠たくなる条件がある時は、「電車」にして爆睡することにした。「経験に学ばない者は、終には何も学ばずに終わる」とは、誰かが言った言葉である。事故を起こす最大の要因は「急ぐこと」と「自分を過信すること」である。「私は眠いが、まだ大丈夫」というときは、もう「危ない」である。

そんなことを思い出していてふと気がついたのだが、駅のホームの端にある「黄色のライン」は、いままで歩行者の為に引いてあると思っていたのだが、実は電車の運転士から入線ホームを見ると「この黄色のラインが実に良く見えて、安全確認に便利」だということに気がついた。このラインが「端から端まで見えている状態」なら、その内側には人が入っていないということなので車両からの安全マージンが確保されていると「確認できる」のだ。電車は車と違って、停止するまでに距離を要する。それに事故回避の為のハンドルがついていないので、危ない!と思っても「もうどうしようも無い」のだ。この黄色のラインは、そういう意味では「電車の運転士にとっては大事な目印」なのではないだろうか。ホームを歩いている人間のすることは予測が難しいが、いろいろな補助器具を使って安全を確保しているのだ。

その運転士という職業は誉めておいてなんだが、いまに「AIが取って替わる」のじゃないかと思っているのである。AIは、まず第一に「眠くならないし、感情も不安定にならないし、体の具合も注意力の一時的な意識障害もないという、運転士としては理想的」なのである。おまけに「ゲームなど絶対にやろうとはしない」のだから、良いことずくめではないか。おまけにレールの上を走るのだから「衝突する危険」は地上の車と比べれば「全然比較にならないほど低い」のだ。今のAIはプログラムされたコードを単純に実行するのではなく、周囲の状況を総合的に判断して「最適の結果を出すために方法を選択する」ことができる。つまり人間のすることから「感情的な不必要な行動」を避けて実行することが可能なのである。「電車の運転に必要な精度」は数十センチのレベルであるから、AIを正常に働かせるだけの「外部の状態を把握するセンサー」は十分今の技術で対応できる。多分今すぐAIを投入してもいけるんじゃないだろうか。運転士の組合は反対するに違いないが、実は「機械の操作」というのが一番ロボットには得意な作業なのである。工場の作業ロボットの実力を見れば、人間には太刀打ちできないことは明々白々である。

数キロ先の進路の状況を的確に判断して対処することはAIなら「お茶のこさいさい」だから、時速350キロで走る新幹線を「AI運転士が走らせる」なんてことも夢ではない。将来に人間の運転士が「蒸気機関車」と同じく「レトロな見世物」になってしまうのは必至である。私はあまり良い気持ちがしないが、人件費のことを別にしても「安全面」を考えると現実化せざるを得ない。AIが人間の形をしているのではなく、ただのコンピューターの箱のままの形の方が、「人間の尊厳を保つためには効果がある」と考えている。ただ私は機械という物体を過度に信用するのもどうなのかな、とちょっと思っているが・・・


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