今回は古典と言われる書物の中でも「四鏡」と称されて歴史好きなら一度は読みたい本の1つに挙げるであろう「今鏡」を取り上げました。大鏡は随分前に読んだことがありましたが、残りの今鏡・増鏡・水鏡はまだ手付かずだったんですね。そこで今回は、とにかく「片っ端から本を読む」のコンセプトで1年間何でもいいから読みまくることにしている手前、こういう時こそ普段躊躇するような大作を読むチャンスだと思い、本棚から手に取ってみた訳です。実は、この本棚は私がこれから読もうと思ってる本を買い揃えて並べている「未読棚」なのです。50冊程並んでいますが、全然減る気配は今の所ありません。何とか減らしたいのですが増える一方で困ってます(いい加減に読めよ!)。たまに眺めてはニンマリしてるんですが、このまま読まずに一生を終えるのかと思うとちょっと残念な気もしないでもないんですけど・・・。
とにかく今鏡は文庫ながら上中下各巻500頁越えの大作なので、普通に読んでいては1年なんかあっという間に過ぎてしまいます。そこで掟破りの「飛ばし技」を使うことにしました。古典の本には大概「原文書き下し文=本文」と読みやすい「現代語訳」が併記されていて、同時に、出て来る人名や歴史的な言葉遣いとか用語などを説明する「語釈」があり、加えて時代背景とか事件のあらましや人物のその後の結末など、私が最も興味ある歴史の本筋をサッと説明する「補説」がある、というのが大体のスタイルです。そこで今回は最初という事で、現代語訳と語釈はすっ飛ばして「原文と補説のみ」を読む事にしました(それで読んだと言えるのか?)。とにかくこれで結構楽になったかな、と思います。
さてこの方法でルンルンで読み始めてみたんですが、まあ誰それがどうしたこうしたとか「しょーもない話」ばっかりがずーっと続くだけで、私の望んでいるような「歴史の裏側を生き生きと描き出す」面白いエピソードが、全然でてこないんです!、全くです。
それで我慢しながら150頁くらいは読んだんですが、正直その時点で「何だかつまらないな」と思い始めていました。まあ、今年の目標は本をとにかく読み切ることであり、内容を理解出来たとかしっかり頭に入ったとかは「二の次」にする、でした。なので、つまらなくてもそれはしょーがないことと諦めて、とにかく最後まで読もうと決めたのでした。ところがその後「後三条天皇が即位」する辺りから何だか読む姿勢に僅かな変化が生まれ、文章から受ける印象が「少しずつ違って見えて来る」ような不思議な感覚になったのです。つまり、今までつまらないと思っていた日常的で些末な出来事の記述の裏に、実は登場人物の「人柄や心理とか悩み」などがしっかり描かれているということに「気が付いた」訳ですね。これは普段お堅い歴史本を読んでいるとついつい見過ごされてしまう「人それぞれのドラマ」が、殆ど歴史を見る眼と無関係のような今鏡の作者による「王朝賛美」に偏した記述の中に「うっすらと見え隠れ」しているのが分かったのです。この事に気が付いてからは、今までつまらないと感じて我慢していた今鏡が、俄然「超面白い傑作」に思えて来たから不思議です。
そこで歴史本を読む時に私が思ったのは「原典を読む」という大原則が絶対必要だ、ということなのです。よく、○○にはこう書いてあって云々と言った「歴史解説本」が巷には溢れかえっていますが、原典には解説本に無い「その時代にしか生まれ得ない独特の臨場感」があると気付いたわけです。その臨場感を味わってこそ、登場人物の苦悩や喜びも我が事のように理解出来るのだと思います。まだ中巻と下巻が残っていますが、私は今年中に読み切ろうと思ってるので、まだまだ気を抜くわけにはいきませんね。この原典主義に従って残りの2巻を読み切り、当時の人々と直に触れあって一喜一憂する「お友達感覚」を味わって、いざ歴史の大海に漕ぎ出してみよう!、と不埒なことを思ったりしています。まあ、あの平安末期の超々大事件である保元平治の乱ですら「あさましき乱れ」と一言で片づけた作者の特異な歴史眼は、普通の現代人の歴史感覚では到底理解できるものではないでしょう。しかし原典主義に即して粛々と読み進めれば、作者の描く「天皇と后、そして世継ぎを取り巻く宮廷人の織り成す悲喜劇」が、実にいとおしい人間模様となって眼前に現れて来る筈です。それを楽しみにして、残りの中下巻を読み切るぞ!(イエ~イ!)。
私の格言=歴史はその時代にワープして、主人公と一緒に喜怒哀楽を楽しもう!、でした。
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