1、酒船石
飛鳥村から岡寺に行く東側の丘陵(飛鳥丘陵というらしい)の途中のクヌギ林の中にこの酒船石はある。私が一人、えっちらおっちら林をかき分けて見に行った30年前ぐらい前の時ですら、全く知られていないかのようにポツンと鎮座していて、看板も囲いもない、ただ「変わった石がある」だけの遺跡だった。だから堀内民一がこの本を書いた1964年の頃には殆ど知られてはいなかっただろうし、道などもなかったのではないかと想像される。今じゃ石の表面は洗ったみたいにピカピカになって木の葉なども取り除かれており、周囲も綺麗に整備されて「まるで観光名所」のようである(実際そうなのだ)。
この石が何の用途でここに置かれているかは「完全に不明」だという。つまり、考古学会のお偉いさんが寄ってたかってここ100年以上も調べた結果が「お手上げ」なのである。古代というのは何とも不思議な時代だ。宗教的な祭祀物でも無い限り、大体の工作物はその用途が正確に「察し」が付く。だから、何の為に作られたか分からない物というのは、実は歴史的には「殆ど無い」と言える。その稀有の遺跡群が「奈良にはいくつも」あるというから、それだけで奈良ってのは不思議な所だった、と思う(正しくは飛鳥であるが)。とにかくこの酒船石は謎というだけで、他に「何の意味もない」遺跡なのは確かである。
世界には、ストーン・ヘンジとかナスカの地上絵とかモアイ像とか色々と謎の遺跡が多いが、それらに私は全然興味はない。古代人のロマンを感じるという人もいるようだが、どこがロマンなのかと思う。ただ、ピラミッドだけは特別であり、古代エジプト人の「驚くべき構造と加工技術の精密さ、そして建築工法の謎」に驚嘆せざるを得ないのだ。ピラミッドの壮大なプロジェクトに比べたら、酒船石など「台所の漬物石」以下の、幼児のおもちゃではないだろうか。
というわけで、私はちっとも感興を覚えなかった。
2、橘寺と仏頭山
橘寺の後方の丘陵を仏頭山という。橘寺の西の山門を出て少し野道を歩くと、西の方に佐田の丘や真弓の丘が夕日にキラキラと美しく映えているのが見えたそうだ。古き良き昭和初期の風景である。この辺り、飛鳥寺から甘樫丘・川原寺・橘寺に至る地域が、私の「心の飛鳥」と言っても過言ではない。飛鳥を巡る古代は、文献が古事記と日本書紀である。まあ、歴史書とは言ってもエピソードが主体の、ある意味「微笑ましい」空想の世界の話だ。だから、出てくる地名も話半分で読むしかないのだが、それにしても「角を曲がれば」続々と記紀万葉の地名に出会うのは実に楽しいとしか言いようがない。よくもまあ「戦後郵便局のご都合主義」に惑わされず、頑なに「古代のまま」の地名を守って今に至っているか、まさに驚きであり感謝の言葉もない。奈良の人達、ありがとう〜!
私の夢は、自転車に乗って飛鳥一帯をぐるぐる巡ってはちょっと「喫茶店」に入って、ぼんやりとコーヒーを飲む事である。スマホのアプリでこの近所の喫茶店を探すと、そこそこ点在しているので探す苦労はなさそうだ。コーヒーを飲みながら可愛らしいウェイトレスに、ところで「蘇我さんちはどこにあったっけ?」なんて無邪気な会話をしたりして・・・。そんな老後を楽しめれば最高だが。
3、天武持統陵と高松塚古墳
川原寺から橘寺に向かって右に行き、途中の大きな十字路を左に折れると、天武持統陵の傍らを通って高松塚古墳に至る。まっすぐ行けば欽明天皇陵や見瀬丸山古墳などもあり、高松塚古墳の先にはキトラ古墳もあって古墳だらけの観がある。飛鳥外縁部とも言えるこの辺りは、天皇などの有力豪族の墓域としてポピュラーだったのではないか。キトラ古墳のすぐ先には文武天皇陵もあり、欽明天皇陵の側には吉備姫王の墓があるそうだ。吉備姫王は皇極天皇(斉明天皇)と孝徳天皇兄弟の母だった人である。この地を「檜前」と呼び、さらに西に行った一帯は「吉備」いう地名で、奈良時代の姻戚関係は「ご近所同士」の結婚が多かったのかな、と思わせる。事の真偽は分からないにしても、古事記の世界は何だか「小ぢんまりとした狭いエリア」の出来事かもと思うと、親近感が湧く。
4、石舞台
岡寺から南に下る道と伝飛鳥板葺宮跡・川原寺・橘寺エリアから東南に下っていく道の合流点のちょっと先に、奈良時代最大の人気スポット「石舞台古墳」がある。この辺りを「島庄」と言ったらしい。このへんは、昔は丘陵の間をぬって細川や飛鳥川が流れ、美しい田園風景が広がっていて、奈良へ来たなという実感が湧いたものである。私も中学の修学旅行で行った。
その時は、案内人が当時の人々の巨石を積んだやり方を得意げに説明していたが、生徒たちは「ふーん」というだけで余り反応はなかったように覚えている。観光バスでぐるぐる巡る式の旅行では、興味を持てという方が無理だろうと思う。かく言う私が歴史に興味を持ったのは、ずっと後、社会人になってからの事である。それだけ経っても石舞台が誰の墓だか「いまだに分かってない」というのは、如何に古代史が謎めいているかの証拠であろう。これこそ「ロマン」と言うのに相応しいではないか。
被葬者は蘇我馬子では?と言われているようだが、そもそもこの時代は、誰が埋葬されているか不明な墓が多い。天智天皇などは、あれ程歴史的に活躍した有名な大王なのに「墓が無い」のだから、他は推して知るべし、であろう。僅かに、中臣鎌足が葬られているという多武峰・談山神社は、この前の道をそのまま東に行くとひっそりと建っている。だが、ここまで来る人は少ないだろう。
石舞台と言う名前は、古くから土地の人々が春秋の行楽時にこの石に登って宴を催したことから来ている、と堀内民一は言う。「罰当たり」も甚だしいと思うが民衆とはこんなものである。広大な野原の中にポツンと露出している巨大な石室を眺めていると、古代のある時期に「強大な一族が滅亡する」ほどの劇的な政権交代があったんだな、などと「勝手な妄想」が頭に浮かんでくる。出来れば私が死ぬまでに「この石舞台古墳の秘密」が明らかになればいいのだが、まあ無理だろうなぁ。謎は謎のまま、解き明かされることはない方が良いのかも・・・
この辺りの風景は、どこか韓国「慶州の風景」を思わせる、と嘗て小林秀雄が言ったそうだ。
5、南渕山と栢森
石舞台の傍らを流れる飛鳥川の上流に古代の祭祀場があり、「南渕の川上」と言った。ここには飛鳥川上坐宇須多岐比売神社があり、今でも村には飛鳥川の上に綱を渡す神事が行われている。つまり飛鳥時代には、ここは神聖な場所とされていた。この近くに608年、推古天皇が派遣した遣隋使・小野妹子に従って高向玄理や僧旻らと一緒に隋に渡った、渡来人・南渕請安の墓がある。
しかし、それほど有名でもない南渕請安の墓がハッキリ残っているのに、天下の蘇我馬子の墓が何処にあるのか分からないなんて、歴史というのは不公平なもんである。その傍らを通り、高取山を横目に眺めて吉野に行く道の途中を「栢森」と呼んでいる。森閑とした山里であるが、堀内民一の当時は橿原神宮前駅からバスが一日2本出ていたと書いてある。観光より地元の人用だろう。
特筆すべきはその栢森の東の入谷(丹生谷)にある大仁保神社で、イザナギ・イザナミ2神の娘・丹生都比売が「忌杖を刺した」場所との伝承が残っているという。ここまでくるともう空想の世界だが、何しろここは奈良・飛鳥である。何でもありなのだ。持統天皇の吉野行幸もこの道を通ったと堀内民一は書いている。しかし私の研究によれば、天武・持統の故地「吉野」は奈良ではなく「九州熊本」である、というのが正しい(これは異端の説であるが)。
まあ、堀内民一は知らなかっただろうが「歴史は進歩している」のだ。当然「奈良の吉野」には、私は全く興味がない。だから飛鳥を旅する時は、精々石舞台古墳まで行けば十分である。
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