明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(38)稲荷山古墳出土の鉄剣の謎

2024-04-07 19:52:22 | 歴史・旅行

私の最も尊敬する古代史学の探求者「斎藤忠先生」の本を Amazon の読み放題でダウンロードし、相変わらず「0円」で読まして頂いた。先生ごめんなさい。まあ年金生活者だから少しでもお金は使わないようにしないとねぇ。本の主題は埼玉県にある稲荷山古墳から出た鉄剣の金象嵌銘にある「ワカタケル大王」とは一体誰なのか?、である。

いつもながら快刀乱麻の切れ味鋭い眼力でバッタバッタと旧説を切って捨てて論旨明快、歴史の真実を導き出す推理の突破力は古今無双じゃないだろうか?

とまあ、斎藤忠氏の本はどれを読んでも素晴らしいが、今回のワカタケル大王についても全く新しい仮説を立て、色んな切り口から徐々に追い詰めて行ってそれを文句の付けようが無い「完璧な考察」で説明して読者を納得させる手法は、数ある歴史家の中でもダントツである。氏のやり方の魅力は言わばシャーロック・ホームズが犯人を追い詰めるような、上質な推理小説が持つ「スリリングな展開と意外な結末」の面白さにある、と私は思っています(これ、私の謎解き趣味にドンピシャにマッチしていて最高のエンタテイメントである)。もし、まだ読んだ事がない方がおられるなら、是非一読してみて下さい。ページをめくるのが止まらなくなる程に面白いこと請け合いです。

さて斎藤忠氏の本の面白さは簡単には語りつくせないが、この辺で本題に入るとしよう。今回の氏の論証を読んで私が感じた「新しい発見」がどんなものだったかをランダムに書き出して、「古代史の楽しみ」を皆さんに知ってもらうことにしたい。

1、日本列島の状況
九州王朝や出雲王朝が古くから「関東にも進出」していて、6世紀頃の日本は意外と「大きなまとまり」が出来ていたんだな、という事。九州から出雲・敦賀や瀬戸内・東海に広がって、そして毛人の国「関東」までそれぞれ密接なつながりがあり、特にワカタケルは九州王朝から関東に派遣されていた皇子ではないか?・・・という雄大な構図です。勿論朝鮮半島にも積極的に乗り出していて、5世紀から6世紀にかけて倭の五王と言われた讃 ・ 珍 ・ 済 ・ 興 ・ 武が活躍していたのは皆さん知っての通りですが、この最後の王である「武」が稲荷山古墳出土の鉄剣にあるワカタケル大王で、父済と兄興が同時に亡くなってしまったので「急遽本家の太宰府に帰り」倭国王朝を継いだ、というストーリーです。何だか謎だった倭の五王に「やっと一筋の光」が差してきたと思いませんか?

2、タケルという名は大和朝廷の言葉ではなかった?
そもそも「タケル」という名称はヤマト朝廷に対抗する地方首長の尊称であり、熊曽建・八十梟師などの例で分かるように「蛮族の酋長」に付けられた尊称です。ヤマトタケルと呼ばれた人物を詳細に見て行くと、これは大和朝廷ではなく「九州王朝の英傑」と考えた方が辻褄が合う。まあ、景行天皇の巡狩が九州王朝の歴史を剽窃したヤマト朝廷の作り話というのは、今は亡き古田武彦大先生が既に論証していることですが、ヤマトタケルの説話もヤマト朝廷とは関係の無い「別人の事績」だったということが明らかになって来ました。特に、雄略天皇の「大泊瀬幼武」をワカタケル大王と読ませるのはヤマト朝廷側の「こじつけ話」を鵜呑みにした通説の大きな間違いで、相当に無理があると思いますねぇ。

3、「天」という言葉の意味
なお、色々な「言葉の意味」についても教えられる事が多々あって、例えば天下とは「あめのした」の意味に使われていると考えられ、一定の地域=例えば飛鳥地方程度の小さなエリアを指す「固有名詞的な言葉」だというのも初めて知りました。つまり「天=アメ」の支配下にある地域、という意味です。これ、意外と古代史では重要な視点だと思う。それは「天」という言葉については一般的な意味、つまり天と地みたいな抽象的な言葉ではなく、この時代においては「アメ」という固有名詞と考えた方が良いのではないか?という事である。例えば隋の煬帝に「日の昇るところの天子」と書き送ったタリシホコの苗字が「アメ」であり、天=アメは大王家の姓だったと考えられる(なるほど)。また、魏志倭人伝に対海国(対馬)の次に一大国ありと書かれているが、一大国(壱岐)は本来は「天」だったのが魏使の方で気を使って「一と大に分けて書いたんじゃないだろうか?、などなど。本当は天國、つまり「アマクニ」である(驚き!)。そして天國=倭国であり、都督府が各地に置かれて埼玉にも「天国府(アマク二府)」があった(という地名傍証が残っている)。これは衝撃です。

4、当時の埼玉の状況
埼玉県の无邪志(ムサシ)国造家は配下に入間(イルマ)物部直や多摩大伴直等を擁する関東の有力者で、強大な力を持っていた。そんな中で墳長200mを超す大規模古墳を建設した人間は誰なのかという疑問が湧いて来るが、斎藤忠氏は数少ない証拠や傍証を冷静に分析・統合して「こういう事じゃないのか?」という一つの姿をこの本で明らかにしています。ムサシ国造家は出雲系で、スサノオを祭神とする氷川神社を祭っているあたりにその特徴がみられるという。埼玉の稲荷山古墳の鉄剣銘にあるヲワケは入婿の可能性が大。大和朝廷とは関係なく、むしろ九州や出雲と関係が深いと考えられる。これも重要なトピックだ。

その他にも

5、日本書紀の問題
考古学の問題として、太宰府の Ⅱ 期政庁遺構の年代測定はC14年代測定法で435年〜610年と出ていて(前畑遺跡の土塁は現在調査中だが未公表で不明)、水城の部品についてはC14で240年〜660年とあり、観世音寺の木樋は430年頃とそれぞれ確定している。つまり、5世紀の倭の五王の時代と合致するのだ。武の有名な上表文に「東は毛人を・・・西は衆夷を・・・北は海を渡って云々」と書いてあって、倭が「太宰府を都とする九州の王朝」とすると地形的にピッタリである(ヤマト朝廷から朝鮮半島は西であり、上表文の記述とは全く合わない)。だから日本書紀は倭の五王について「一言も書いて無い」のだと私は思っている。まあ何より天皇陵とされている古墳を片っ端からC14年代測定法に掛けて「白黒つけてほしい」のだが宮内庁はウンと言わないらしいんだな、これが。古代史の問題の過半は「宮内庁に原因あり」ですね。

6、雄略天皇の没年と河内大塚山古墳
斎藤忠氏は雄略天皇は「549年没」と思われているので、ワカタケル大王ではないと書いている(これも大問題だ)。雄略天皇系は清寧・顕宗・仁賢と続いて武烈天皇で絶えた。継体天皇は謎多き天皇で敦賀からやって来た応神5世の孫という触れ込みだが、后にした手白髪皇女は実は雄略天皇の従兄弟の市辺押磐の子である顕宗・仁賢天皇の「母」と日本書記に書いてあるらしい(ホント?)。つまり雄略天皇と市辺押磐とそして継体天皇は「同世代」なのだ(がびぃ~ん!)。しかも継体天皇は「雄略天皇と主従関係か?」とも書いている。まあこれは「?」マーク付きの推論として書いているが、これはまたまた大問題である。とにかく「528年に筑紫君磐井が倒された」件を契機として日本列島が大きく変化しようとしている時期に何があったかは、更なる研究が必要である。

7、獲加多支る大王という名前
私は原文参照するほどの知識がないので分からないのだが、日本書紀などに雄略天皇のことを「獲加多支る」と書いている例はないんじゃないだろうか?。
実はワカタケルという鉄剣銘が雄略天皇の大初瀬若武と言う名に「似ている」ということで「雄略を倭国王武に比定」しているのが現実だと理解している。これって私的には、どう考えても日本書記に書いてない名前をわざわざ選んで「鉄剣銘に記録する」というのは「変」じゃないだろうか?。九州の江田船山古墳にもムリテという「熊本人」 が仕えていて同じ名前を記録している所を見ると、倭王武の都は「九州」で決まりなんじゃないの!。ちなみに倭王武、つまり「倭武」という字は一見訓読みで「ヤマトタケル」と読めるように一般人は思うが、当時の読み方としてはそういう読み方は「なかった」んじゃないか?。少なくともそういう事例は確認されてないと理解しているんだけど、どうなん?。

などなど。

一応これで当記事は終わりとしますがこの記事は一切斎藤忠先生の著作とは関係がなく私が勝手に書いているだけなので、興味がある方は是非「本を読んで」下さい。Amazon で無料で読めます(読み放題に加入している人)。ざっと読んだだけなので私の理解があやふやな点も多々あり、いずれもう一度きちんと読み返して「より正確な古代史の知識」を身に付けたいと思っています。次は「倭国滅びて日本国建つ」を読もうかな・・・



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