明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古都の思い出(暫く振りで続々編)

2017-05-30 18:37:12 | 歴史・旅行
嵯峨野、如何にも古都京都を象徴する華やぎに溢れた場所である。渡月橋のたもとには威勢の良い呼び声と共に人力車が並び、川面を渡る薫風が河畔の桜をそよいで、人々の顔も皆浮きたっている。古くは源氏物語の時代から、やんごとなき貴族の遊び場として風光明眉な土地であったと言う。近くには大沢の池とか大覚寺があり、嵯峨天皇の治世の華やかさを偲ぶことも出来る。さすがに近年は大量の観光客が押し寄せてテーマパークみたいになっているらしく、嵯峨野の雅な風情を楽しもうという客にはもう平安の世も遠くなってしまった。前に訪れてから30年近く経っているが、京都に行っても立ち寄ることもなく今まで過ごして来た。いつかまた行って見たい嵯峨野、できたら今度は住んでもいいかな、と思っている。そんな嵯峨野の昔懐かしい思い出を2、3書いてみた。

1 渡月橋
雪の京都は浮世絵のように美しく、桂川にかかる渡月橋を下流の岸のたもとから眺めると、中洲に並ぶ茶店の軒先に真っ白な雪が降り積もって、川面に映る影が揺らいでいる。正月をちょっと外して訪れた人影もまばらな朝方の空気は、凛として清々しい。古都の風情を頬に当てながら渡月橋の欄干に寄りかかっていると、平安時代の息吹が川の流れに乗って橋の下を流れて行くようだ。貞信公の歌に名高い小倉山を見上げてそぞろ歩きをすれば、御所の辺りの喧騒も嘘のように静かである、、、と思ったのは30年前の嵯峨野の話。今じゃ嵐電の嵯峨野駅前には観光客が芋洗いの様相で自撮り写真を撮りまくっているそうだ。御多分に漏れず、渡月橋もタクシーや修学旅行の団体客をのせた観光バスが行き交う交通の要所となっている。だが、桂川の下流の方にだらだらと歩いていくと、鴨川と違って両側が開けて青空がくっきりと美しい。混雑した人混みを後にして少し歩いて離れてみると、意外と静かな自然が残っているのが嵯峨野である。有名な観光スポットを避けて裏通りを探して歩けば、まだまだ京都も捨てたもんじゃないなと実感する事が出来る。京都は散歩する町である。幸い碁盤の目のように縦横の路地が正確に交差しているので、迷うという事がまずないのはポイントが高い。私は京都では、なるべく歩くことにしている。疲れたら喫茶店に入るというのも京都ならではの楽しみではないだろうか。京都は喫茶店も星の数ほどありそうだ。喫茶店巡りなんていうのも乙なもんだと思うけど、もし京都に住んだらやってみたい事のひとつである。

2 野々宮神社
この辺りは、源氏物語の賢木の巻に出てくる六条の御息所と光源氏の今生の別れの場である。一緒に行った彼女は大の源氏物語のファンで、六条の御息所の光源氏に対する切ない思いと、それを断ち切って伊勢へと旅立つ心の葛藤を「せつせつと」私に語るのであったが、光源氏に全く共感していない私の生返事にとうとう諦めて「分からない人には分からないのね、彼女の気持ちが」と、長々と溜息をついた。雪を被った黒鳥居の下を潜って境内を一周して、それから北陸本線の踏み切りを渡り、竹林の小径へと歩いていった。最近「線路内立ち入り」で有名になったが、全く風情のない事おびただしい。インスタか何か知らないが京都を楽しむには、独り自分の五感で京都の隅々を「あー、京都だなぁ」と感じる事ではないのだろうか。インスタに写真を投稿した時点で、京都はどっかに飛んで消えて行ってしまう。踏切ではしゃいだ写真をみんなで見て、知り合いは楽しいかもしれないが卒業旅行の写真の延長であり、主役はあくまで「投稿した人間」である。薄暗い竹林の出口にある場違いな列車とのミスマッチが新鮮なこの有名な踏切は、いまや嵯峨野一の有名撮影スポットになって大混雑である。私が30年前に彼女と行った時には雪が辺り一面に降り積もっていて、まだ誰も通っていない真っ白な竹林の小径を「サクサクと踏みしめて」歩いたものだった(奇跡だ)。途中の公衆トイレで彼女が用を足すというので外で待っていたら私の傍にドサッと雪が落ちて来て、「すぐまた元の静寂」が周りを包みこんだ。余りにも静かで、鳥の声だけが時々遠くに聞こえている。後ろから「お待たせ!」と彼女の声が響いた。二人だけの世界であった。

3 常寂光寺
日蓮宗の寺だそうである。室町時代の町衆の繁栄と共に日蓮宗も隆盛を極めた。私は相変わらず「そんなこととは露知らず」で、静かな境内をブラブラ散策しつつ山の中腹にある多宝塔にたどり着き、京の町並みを見下ろして「すごいすごい」を連発していた。彼女はあんまり興味ないようで、「ふーん」と言って階段を降りようとしたが雪が凍っていて滑りやすくて危ないので、私の手を握ろうとしたが私はサッサと降りてしまっていたので、プクッと頰を膨らませ「手を貸してくれないの?優しくないのね!」と不満気に言われてしまった。あーあ失敗した、と思ったが後の祭りである。彼女は「映画のワンシーンのように」男が手を差し伸べるのを期待したのだが、差し伸べる男が「誰なのか」は重要ではないのである。ただ思い出が欲しかったのだ。だから、私の行動が期待通りであったにしても、何も起こらなかった事は確かである。私達は時折こんな会話を交えながら歩いていた。嵯峨野はブラブラ歩くのにも格好の地である。とある奥まった場所にある隠れ家的な喫茶店に入った時(私はその頃タバコを吸っていた)、私はタバコの箱とセロファンの間にホテルから持って来た爪楊枝を挟んでいたのだが、「そんな所に挟んでいるの?私にも頂戴!」と、彼女に一本取られてしまった。そんな習慣は後にも先にもその時一回限りだったが、私もいっちょまえにエチケットを気にしていたのである。コーヒーを飲みながら何を話したかは覚えていないが、ちょっとした個室のような部屋で間接照明がニ人の顔をぼんやり照らしていたのだけは覚えている。人間の記憶というものは、肝心なデータは忘れるのにどうでもいいような1シーンは目に焼き付いているものだ。京都には何回となく足を運んだが、覚えているのは断片的な画像と音声、それに妙にはっきりとした会話のフレーズなのである。ネットで探せばいくらでもある寺や神社の建物の写真などは、結局は思い出にはならないと思うのだ。大事なのは道端の草花や風の音やその時の自分の感情であり、人間の言葉だったりする。思い出してもそんな大した思い出でも無いのに不思議と記憶に残っているのは、みんなごく個人的な「或る日の自分」ではないだろうか。大切にしていると人に言う程のものではないけれど、自分の生きて来た「道すがらの一コマ」である。そんな一コマが、たまたま常寂光寺にあると言うだけなのだが、でも私にとって大切な思い出には違いないのである。

4 松尾寺
夏の暑い日だった。カンカン照りの中を私は四条大通りを西に歩いて松尾の地に分入っていた。ここは分譲マンションだいくつか建って現代的な風景である。京都と言っても人口も多いし、そこらじゅう歴史的建造物ばっかりと言うわけじゃないのだから分譲マンションがあっても当然だが、市の中心部は流石に高層ビルを建てることは条例上難しいらしく京都タワーだけがポツンと立っている。あれも建築当初は内外から批判が集まったそうだ。パリのエッフェル塔ですら最初はグロテスクと言われたらしいから、伝統を守るのも大変である。近くにはスーパー・サミットもあり、区画整理された住宅地をブラブラ歩きしていると京都にいることを忘れてしまう。しかしそれにしても京都の夏は暑い。曲がりくねった道を歩いて行くと少し樹々のこんもりと生い茂った辺りに出た。松尾寺である。嵯峨野にあって特に〇〇の名所という程でもなさそうだし、あっさりとパスした。私は寺を「本来の目的ではなく、美術品として鑑賞するのは嫌い」である。寺が純粋に仏教の修行や教えを学ぶ為に建てられたのはせいぜい奈良時代の頃迄で、平安末期以降は「終末施設的モニュメント」と化しているのは事実だし、皇族の別荘を寺院にして菩提を弔うというものもあって目的がズレてしまっているのだ。そんなことを考えながら渡月橋をいつもとは逆に渡って、天龍寺の方へと戻ってきた。それが今ネットで調べると松尾寺ではなく「松尾大社」であるって書いてある!なんて事だ!私の旅行はいつもこんなドジをやらかすのである。このブログを書かなければ、未だに松尾寺で通していた、ああ恐ろしい。ちなみに松尾大社は酒の神様を祀ってあるそうなので、行っときゃよかったなぁと後悔先に立たずである。近くには鈴虫寺や苔寺や地蔵院などがあり、嵯峨野と並ぶ観光エリアであると書いてある。惜しいことをしたもんだ。そんな名所があるとも知らず、全身汗だくになりながら炎天下を歩きまわって熱中症寸前だった私は、やっと見つけた喫茶店にヘトヘトになりながら飛び込んだ。汗でびしょぬれのまま座席に座った私を見て女主人は不審人物を見るかのような顔をしていたので、余程怪しい者に見えたに違いない。テレビの刑事ドラマなら、間違いなく犯人である。店の女の子が怖々水を持って来て何か言っていたが、私はボーっとしていて記憶が全然無い。喫茶店にしてみれば散々な思い出だが、これはこれで懐かしい思い出である。あの小さな喫茶店は、まだあるのかな?

5 池の坊と六角堂
京都は町中に実に多くの寺や神社が、周りの景色に溶け込むようにして建っている。六角堂もあちこち寺巡りをしていたらパッタリ出くわした内の一つだ。曲がり角を曲がる度に古めかしい神社仏閣に突き当たるのが京都だ。六角堂の中は狭い敷地にお堂が2、3建っていて、しゃんしゃんと錫を鳴らす人や礼拝をする人でゴチャゴチャしていた。人混みを避けて脇の池の方に目をやると小さな朱塗り太子堂が目に入る。何でも聖徳太子が物部守屋との戦に勝って四天王寺を建てるに当たり小野妹子と建築資材を探しにこの辺りに来て云々、と長い長い創建秘話があるらしく、歴史を紐とくとどんな寺でも物語があるので面白い。一体に、京都の名もない寺でも一つ一つ丹念に調べてその来歴を本に書けば、たちまち面白い読み物の5、6冊は出来てしまうと正直思った。奈良に住んで足繁く京都に通うのが良いのか、はたまた京都に暮らしつつ奈良の自然と古代史の謎を肌で感じるのが良いのか、どちらが良いか迷い始めている。何しろ奈良は物価が安いが、私の求める喫茶店生活は京都の方が断然優れているように思うのだ。それに旅行をしている人が多いので、地元の人と交わらなくても良さそうだし、困ったな。以前はもう「奈良に住む!」と心に決めていたのだが、その決心もちょっと揺らいで危うくなって来ている。六角堂でワンサカといる人の群れに押しまくられながら、こんな混雑具合が案外と性にあっているかも、と思っても見る。僕って意外と都会人なんだなぁ、と思ってニヤついた。

6 小野の小町
京都の西小路をブラブラしてたら、偶然小野の小町の墓を見つけた。小さい墓で大通りからちょっと入った所に、他の何人かの墓と隣り合わせになってひっそりと立っていた。小町と言えば絶世の美女、紫式部や清少納言よりも有名と言えば有名なのに、この扱いはちと寂しい。祇王・祇女は平家物語で名を残し嵯峨野の山中に祇王寺を建てて念仏三昧に篭ったが、小町は深草の少将を振ったおかげで落ちぶれて生き恥を晒した、と歴史にある。美人でツンツンしてたのか、男達には結構恨まれたんだなぁと、いささか小町の哀れな生涯に同情する気にもなる。美人は年取ったら誰も相手にしてくれないから若いうちにいい男を見つけなきゃいけないのに、彼女は適当な見切りが出来なかったんだろうな。映画が出来ていたら、間違いなく「原節子とか吉永小百合とか」と肩を並べる大スターだったろうと思ったがふと、彼女も理想があったに違いないと思い返し、不遇を囲った一人の女性の人生に想いを馳せた。「花の色は移りにけりな徒に~」と口ずさんで私は両手を合わせ、冥福を祈って墓を後にした。今回このブログを書くにあたって、ちょっと神社の名前を調べてみようとネットを探したところ、なんと「地図のどこにも載って無い」のだ!。あれれ?どうなってんの?と思って検索ワードをあれこれ変えてみたが、一向にヒットしない。私の思い出も、とうとう消えてなくなってしまったらしい。超がっかり。こうなったらもう一度行ってみるしかない、30年振りに京都で墓探しとシャレ込もうじゃないか。運が良けりゃ、残っているかもね!

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