明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ようやく春めいて、いよいよ生命の息吹があちこちで感じられる季節がやってきました!

2016-02-21 20:00:00 | 今日の話題
(62)下駄の話 : 一本歯の下駄は意外と履きやすいらしい

何処かは忘れたが、一本歯の下駄を並べた履物屋があった。テレビのぶらぶら散歩かなんかの番組だったような。天狗の下駄だという。一本歯の下駄なんて歩きにくいんじゃないかと思ったがこれが意外と履きやすいんだそうである。特に、登り坂の山道では普通の靴だと踵が下がって重心が後ろに倒れてしまうが、一本歯の下駄を履くと垂直に立てるためとても楽に歩けるという。開発したのはあの役行者小角であるとか、何でも役行者のやった業績にするのは弘法大師や聖徳太子と同様のの、民衆の愛惜の深さであろう。

ヨーロッパでは木靴が一般的だが、南の地中海地方では古くからワラジ状のサンダルを履いていた。日本人は江戸の頃まで何やかや言いながら草鞋を使い続けたが、西洋人は早いうちから靴を履くように変化した。民族大移動の影響で履物の習慣が変化したのか。貴族の肖像画を見ても部屋履き状の軽そうな靴を履いているが、日本人は親指と人差し指の間に鼻緒を挟む式の草履や下駄を好む。西洋のサンダルはきっちり足に固定しているが、日本の草履が脱ぎ履きしやすいように固定していないのは、家の中で靴を脱ぐ習慣があるためである。日本の高温多湿な環境では、生活の全てにおいて日本式のほうが合っているのだ。

明治の欧米文化輸入の嵐の中、日本は驚くべき速さで発展・成長を遂げた。昭和の大戦争時代が敗戦で幕を閉じた昭和20年、日本人の生き方は江戸末期の文明開化による独立国家から対米従属の利益追求国家になって行った。方針転換は良い悪いでは無い、それしか無かったのである。だが戦後70年、そろそろ独立して日本人の心に相応しい国のかたちを取り戻す時期が来たのではないかと思う。それはアメリカにベッタリくっついて近隣諸国と武力衝突するのではなく平和共存して、たとえ少々贅沢は出来ないまでも、自国の歴史と伝統を大事にしながら静かに大らかに生きてゆく。

日本人の生活様式は草履や下駄を履くのには不向きになってしまったが、スーツにネクタイというスタイルが徐々に選ばれなくなって来た昨今、また新しい日本人にピッタリのファッションが生まれてきそうな雰囲気が濃厚になっている。暑苦しい夏こそ、伝統に見合った装い方をデザイナーも考えてくれたら、西洋と違った21世紀の日本独自の文化が芽生えるかも知れない。その時は「山歩きする時は一本歯の下駄がいいよ」ってなっているかも。


(63)庭の話 : 京都の寺は何故庭が有名なのか

京都には歴史的に名のある寺が多い。そして、花や庭が美しい事で観光客が集まるのもまた、京都なのである。京都は観光するところというアイデンティティを町全体で作り上げて来た成果であろう。私は若い頃、詩仙堂の庭を畳に寝そべって見た記憶があるが、色とりどりの草花が織りなす豊かな世界に陶然としたものであった(今は寝そべってはいけないみたいなので、ご注意召されよ)。庭は、静寂の中に風の音・虫の声が混じり合い、この世とも思われぬ人工的な景色と共に人々を夢想へと導く。心が洗われるとは日本人の好きな言葉てある。

では何故そんなに庭が人を感動させるのか。それは非日常空間の演出ではないだろうか。奈良には庭で有名な寺が少ない。というよりも庭が持て囃されたのは江戸時代である。昔は植物を愛でたにしても自然のままに楽しんだ。吉野の桜・竜田の紅葉、梅に鴬は春の到来を告げる季節の風物詩である。飛鳥時代はそこら中が野原である。田圃と畑に小川が流れ、鹿や猪が走り野鳥の飛び交う大自然の中に人間も生きていた。大極殿と言ったって、せいぜい板葺き屋根の小さな王宮だ。まだまだ素朴で荒々しい人々が、ふと立ち止まって冠婚葬祭のことあるごとに歌を詠んだ。歌はまだ中国からやってきたハイカラな文化である。庭は、だから必要なかった、これが真実である。

ではどちらが好きかと聞かれたら、私は人工的な京都の美より、奈良の素朴な心地よさを選びたい。あくまで個人的な好みではあるが。


(63)躾の話 : キチンとした人間になるために

子供の成長に合わせて教育をしていくのは親の務めである。古来12歳になれば働いて家計を助けるのが当然であり、そのためには躾という社会の仕組みについての知識をしっかり頭に入れる事が不可欠だった。それが段々と年齢が後ろにずれて来て、今や30歳でも躾が必要な時代が来ようかという、昔の人には想像もできない社会が出現しつつある。

躾とは社会常識のことである。約束を守る、目上の者を敬う、他人の物を盗まない、身の丈に合った生活をする、何れも生きていく上で不可欠な事、万国共通のルールである。それが現代ではわからなくなっているのだ。ルールであるから理屈ではない。長年いろいろな人間の雑多な環境の中で培われてきた基本的なものである。だが今の子供は成長するまで、社会と接する機会が余りにも少ない。

親は子供にまず「人様に迷惑をかけない人間になって欲しい」と思って、あらゆる機会をとらえて躾ける。躾けとは、愛情を持って教え諭す事である。子供は小さいから世の中のやっていい事と悪い事の区別が分からない、だから教えてできるようにする、これが躾けである。私はもう一度、親の側でこの「やっていい事と悪い事」について考え直して社会的コンセンサスを作る必要があるのじゃないかと思っている。子供を学校にお任せする前に、親の教育が必要な時代になってしまった。

大きな問題をいきなり取り上げるのではなく、身近な事から一歩一歩一つ一つ考えて答えを出していく、それを地域や市町村でまとめて全国に広めてゆく。気の遠くなる作業だが、今はテレビもSNSもある。もう始まっているかも知れないが、社会として国家として実現しない事には意味がない。個人の考えではいつまでたっても社会的コンセンサスにはならない。国家的ムーブメントが不可欠である。

まず一つ、エスカレーターの乗り方などからやってみるのはどうだろう。昔は片側は空けておくのがルールだったが、事故があってからは両側に乗るのが良いとなった。まだまだバラバラで、両側を塞ぐのは急ぐ人から文句を言われる可能性があり、私なんかも躊躇する。これは「エスカレーター安全週間」とか期間を決めて、駅とかデパートとかて係員が付いて説明をし普及させるのがいいと思う。

急ぐ人は階段を走ればいい、エスカレーターの構造は片側一列乗りには不向きだそうだ。これが常識となり「理由はわからないけどみんなやっている」レベルになって初めて、自分の子供に「躾ける」ことが出来る。躾けとは理屈ではない、議論以前の常識である。だから誰に聞いても「同じ答え」でないと困るのだ。今はそれがなくなってしまった。また作り直すのは何十年もかかるだろう。しかしそれが民族の伝統・風俗である。

日本民衆の伝統もまた必ずや復活することを信じて、私も日々清廉風雅に身を持する事としよう。

ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり (順徳院)


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