明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

ミケランジェロのダビデ像は失敗作?

2017-06-14 22:30:42 | 芸術・読書・外国語
私は前から思っていたが、彼のダビデ像は顔が異常にデカイ。この前たまたまテレビで中井貴一が出ているルネッサンス探求番組で、映画テルマエ・ロマエの作者の漫画家ヤマザキ・マリが言うにはあのダビデ像は、途中まで彫られて放置されていた石材を、ミケランジェロが引き継いで彫ったものらしいのだ。私が思うに「だから全体的にバランスがおかしいのだ」と長年の疑問が解けて、ようやく合点がいった。疑問というのは大袈裟だが、人々が下から見上げて丁度いいバランスになるようにワザと頭を大きくしてあると説明されていて、これもまたミケランジェロの彫刻の素晴らしさの一つの証しだ、とこんな感じである。だが私は「何となくそうかなぁと思ったりしたが、決してなるほどと感心した訳ではないモヤモヤした気分」で聞いていたと記憶している。

いちいち説明をするぐらいだからダビデ像を見た人全員が「何だか頭デカクない?」と思っていたに違いない、いや間違いなくデカイ。そこで待ってましたとツアーコンダクターがもったいぶって例の説明を厳かに始めるわけだ。何しろあのミケランジェロである、「何かバランスが悪いな」などと素人が思っても口に出せるわけがないし、お偉い先生方が自信満々に解説する芸術の秘奥に文句をつけるおバカな旅行者がいたら、周りから散々無知呼ばわりされて折角の旅行を台無しにされるのがオチである。それで皆な芸術とはそういうものなんだと納得して、一つ利口になって帰って行くのだ。その人がまた他の人に得意げに説明するから、どんどん話が増幅されてもはや定説となって世界に流布している。だが皆な心のどこかに「でも頭がデカイよね」と思い続けているのじゃないかな。そう、あれは間違いなくデカイ。事実だ。

そもそも建築の五重塔は上層に行くに従って小さく作られていて、遠くから見ると「座り」が良く、下から見ると実際より「高く」見える。人間の目は遠近法などに見られるごとく、遠くのものや高いものが小さく見えることでおよその距離を測っている。逆に高いものが普通あるべき大きさよりも大きく見えたら「それ程高くない」と認識するわけだ。ミケランジェロのダビデ像が「特に背を低く見せようとしてるのでない限り」頭を大きくする理由が無いのだ。それに彫刻の像というものは「下から見上げる」ようには出来てないと思う。彫刻を置く場所を考えると、入り口の左右とか祭壇の左右とか列柱の上とか或いは広場の真ん中とか、要するにほぼ遠くから目に付く場所に建っていて、人々は大抵少し離れた場所から眺めるように作られている。

最近の美術館などに展示されるような芸術作品としての彫刻は、ルネッサンス時代には考えられなかったのだ。つまり全て装飾のための彫刻である。だからミケランジェロのダビデ像が「見る者の視線を考慮して、高い所の頭がバランスを取るために大きくして」あるのなら、「他の彫刻も全部、頭がデカクなっていなければ」変である。つまりミケランジェロに限らず彼の同時代人またはそれ以降の全ての彫刻が、「上に行くほど大きくなっている」筈である。しかし私の少ない知識で知る限り、世界で頭が実際に大きくてバランスの悪い彫刻は「ミケランジェロのダビデ像だけ」である。変じゃないだろか、まるで特許でもあるかのように「一つだけ」って。

百歩譲ってミケランジェロが独創的に考えて「頭をデカくした」のなら、右腕が異常に長いのはどう説明するのか。または逆に肩幅が狭くなっているのでは「上体だけ小さく、高く見えて」しまうのはどう説明するのか。要するに、上体の大きさを頭と釣り合いの取れるようにもう少し大きくし、右腕をもう少し短くし、足をもっと長く彫ったのなら「実に美しいダビデ像が」出来上がっていた事は間違いが無い。同時に、私のモヤモヤも綺麗に解消していたはずである。

結論、ミケランジェロのダビデ像はバランスが悪い失敗作、である。

この事で改めて思うことは、人間の頭に刷り込まれている「常識」というものが、如何に理由なく思いつきで理屈に合わないものか、よくわかろうというものである。自分の内なる自然の声に耳を傾けて、世の中の常識などというものを一度全部疑ってかかる姿勢こそが、真実にたどり着く唯一の方法である。これがミケランジェロのダビデ像を見て私が得た教訓である。







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