明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(7)斎藤忠「日本古代史の謎」を読む(その3)

2019-07-21 19:34:25 | 歴史・旅行
11、継体の死
前回までの流れから、倭国の盟主は「九州の俀国」であり、もともと倭国の友好国あるいは支配下にあった近畿大和は、一時的に越からやってきた継体天皇に簒奪されたがその継体が逆クーデターで倒され、九州派遣の「監督官蘇我氏」の元で傀儡の欽明天皇が大王位を継承した、というところまで「ほぼ確定」した(と思っている)。この時の百済本紀(現在は逸失)の記事「継体25年日本天皇及太子皇子倶崩薨」の解釈を、斎藤忠は倭国の磐井君とその太子・皇子だとするが、私は逆に「殺されたのは継体天皇と息子の安閑・宣化」だと考える。それは二人の後継者が余りにも短命だから、何か隠蔽の粉飾がある考えたわけだが、この欽明天皇即位前夜の政権はどこか不穏な雰囲気が漂っていて、応神五世の孫という継体天皇の出自も怪しいなどを考え合わせると、この三人はどうも近畿大和国とは異質な所、つまり全く外部(=例えば朝鮮半島)からやって来た大王だったのではないかとも思っている。日本書紀は天皇位が連綿と続いていたとする皇統不変の原理を貫いている書であるから、天皇が倒されて新しい天皇系列が始まった(いわゆる易姓革命)、とは絶対に書かない。だから、実態は継体王朝が何らかの不測の事態で消滅した、と私は想像するのである。欽明天皇は兄弟間の順当な王位継承であり、戦争で前天皇を倒した政権だとは書いてないが、この辺の事情は事実とは異なっていて相当に怪しいと私は見ている。だが斎藤の言うように、磐井がクーデターで殺された時に一緒に太子・皇子も死んだとする説も、当然ながら正しいように見える。日本書紀が百済本紀の記事について「誰の事か明確に言ってなく」無視したようになっているのでいまだに謎なのだが、継体25年は531年に当たっており、磐井の乱の記述(継体22年)とやや時期がずれているのが、たった一つではあるが疑問の残る点である。もし磐井と共に太子・皇子共々誅戮したのであれば、単に「磐井を斬る」ではなく、「磐井とその太子・皇子を一撃に誅戮す」とか書けば、百済本紀の記述とも「ピッタリ辻褄が合う」ではないか。でも、その書き方だと「磐井が大王位にあった」ことがバレてしまう。困った日本書紀編纂役人が、百済本紀の「太子・皇子共に死す」という記事を見て近畿王朝に当てはまる記録がないかと探したのだとすれば、磐井のことは筑紫国造と書いているから、日本天皇・太子・皇子とある以上は「近畿天皇家」のことにならざるを得ないからなのだ。だが天皇一族が同時に死んだとするのでは、どうしたって「易姓革命」になるではないか?。これでは元も子もない。そこで継体天皇の死亡記事として年次を当てはめては見たものの、どうにも上手く当てはまらずに「後勘校者、知之也」と逃げたのだろう。日本書紀編纂役人がどうしても嘘をつかなければならない時は「必ず皇統不変が絡んでいる」、というのが私の考えである。まだ結論は出ていないのだが、案外真実を突いているように思うんだけど・・・。なお、継体天皇の墓と言われている「今城塚古墳の阿蘇ピンク石製の石棺」といい、仏教公伝538年を「欽明7年の戊午年」とする元興寺伽藍縁起幷流記資材帳や上宮聖徳法王帝説などの記事の件など、色々の謎が解明されていないまま放置されているのが今の日本歴史学会の現状だ。なぜ放置されているかというと、九州王朝の存在を「正式に」認めないからである。だから先へ進めない。まあ愚痴は此のくらいにしておいて、いまは本を読み進めていこう。何れにしても、此の時期に倭国と近畿政権の間で大きな転回点が生まれたのは事実であろう。継体天皇に関しては、即位してから相当長い間「政治の中心たる大和」に入れなかったのであるから、旧大和政権と対立していた勢力であることは間違いない。しかし九州倭国とは磐井の件でも分かる通り、全然別で違う勢力だ。ではどこなのか。書紀の書いてあるとように、継体天皇が当時も大きな人口を有していたであろう越地方から侵入した勢力とすれば、朝鮮半島と何らかのつながりも見えてくる。そうなると、一見、列島騒乱の時代のようにも思えるが、日本書紀の描く世界は、中国史書に書かれていないことについては近畿大和の「うちわの出来事」だという姿勢なので、この欽明天皇即位にまつわる争いは(九州倭国とは関係がない)大和地方の騒乱と捉えていた、と考えておいて問題がないのではないか。王位争奪の戦いで欽明天皇が勝利したのだが、日本書紀の通常の論理で言えば「順当に皇統が継承された」と書くしかないのだろう。まあそういう意味では、百済本紀の記事も斎藤の言うように「磐井誅戮」の話であり、日本書紀編纂役人の「良く知らない倭国の事」であったとするなら、詳しく書いていないのも筋が通るとも言える。日本書紀編纂役人は倭国については無視あるいは曖昧な記述で済ましているが嘘は書いておらず、近畿大和の「不都合な真実」については「虚偽やすりかえ」を無理やりやっている。いわば「真面目」なのである。そこで、肝心なのは百済本紀の言う日本天皇云々の「日本」とはどこなのか、だ。後に中国史書に「日本は元小国、倭国の地を併せたり」と書かれた所を見ると、日本は倭国ではなく「近畿大和政権を指す」と取れるではないか。であれば、やはり日本天皇死亡記事は「継体大王と一族が殺された」事件とする私の考えが有力になって来る。もちろん百済本紀が倭国と日本を別々に扱っているとして、での話ではあるが。

12、多利思北孤『聖徳上宮法皇』
6世紀の磐井の乱(継体大王側のクーデターによる)で豪族たちの慰撫も含め、一時半島の支配権争いから退却せざるを得なかったた九州政権は、部下たちの意見を入れて軍事力による版図の拡大をやめ、代わりに文化芸術による繁栄の道を選んだものと考えたい。倭国の方針の変化には、当然ながら、仏教の果たした役割が大きかったと見られる。仏像仏典の輸入により最新の仏教国家となった俀国は、足元の政治を充実させて力を盛り返し、王権のさらなる強大化が図られたと見てよいだろう。俀国大王の多利思北孤が、隋の煬帝に「日の出ずる処の云々〜」の国書を送ったのは、斎藤曰く「殷・周・秦・漢・魏・斉の流れを汲む中国南朝の正統性を信奉する倭国」が、北方遊牧民族である北朝とその後継の隋・唐を正統の天命を受けた王朝とは認めていなかった証である、と書いている。卓見だと思う。この頃、俀国は空前の繁栄を極めており、多利思北孤も自国の政策に自信を持っていたのではないだろうか。年代で言えば7世紀初めの頃、日本書紀で言えば推古女帝と蘇我馬子や聖徳太子の活躍した時期に当たる年代である。多利思北孤を推古天皇とするのは余りにも無理があるから、当時の実力者であり天皇の補佐役だったとされる厩戸の皇子「つまり聖徳太子」のことだろう、と日本書紀編纂役人が見誤ったのも無理はない。書紀は近畿大和の王朝が日本を統治していたという立場であるから、中国の史書にある通交記録は「日本書紀にも同じように存在」しないと変であると思っている。ところが600年の遣隋使の記録が隋書に書いてあるのに、送った側の日本書紀には載っていないのだ。これは当てはめる記事が近畿大和政権側の記録にないから黙ってスルーしたのか分からないが、「重要ではない」と思ったのだろう。私は日本書紀を虚偽の書のように描いている歴史家と一線を画するものである(大袈裟だ)。だが嘘っぱちを書くだけなら「いくらでも書ける」のに書かずにおいた点に、書紀編集者の誠実さを見るのである。「どうしてもわからないことは無視した」と解釈するのが、日本書紀の正しい読み方だと思いたい。それで607年と608年の遣隋使の場合は記事があったので、自国のものとして書くことが出来たわけだ。教科書に言う小野妹子の活躍記事である。これらの記事には色々不都合な真実が指摘されているが、ここは多利思北孤である九州俀国大王が送った遣隋使の記録を「小野妹子の記事と取り違えて」書いたのであり、近畿王朝の推古女帝は倭国の遣隋使とは「別個に遣唐使を派遣していた」とだけ言っておこう。推古女帝も頑張っていたのである。教科書がこの間違った事実をいつまでも載せておくことは犯罪でしかないと私は思っているのだが、私が生きている間に訂正されて「多利思北孤の九州王朝を正式に認める」ようになるかどうかは、大いに疑問である。もはや日本歴史学会は牢固の塊であるから、仕方がないものと諦めている。まあ、天皇崇拝一元理論の狂信者は放っておくとして、斉藤忠の本が指摘する「古代音韻語研究の進歩の成果」が興味深い。それによると、6世紀頃に「倭」の発音が「ゐ」から「わ」に変化したと想像されるらしい。これを嫌った倭国(ゐこく)は、6世紀末頃に名前を「俀国」と変えたようだ。多利思北孤は7世紀の法華義疏という本によれば「大委国上宮王」と署名しているそうだから、自分の国を「大委国」と称していたのは間違いなさそうである。私はこの「大委国」という呼称が何故かエラく気に入っている。何か「アジアの雄国」に相応しい名前ではないか。そろそろ日本も国名を変えて「大委国」にする、というのはどうだろうか。いいと思うけどねぇ・・・。この多利思北孤は先進的な文化を取り入れるに熱心な大王だったようで、「官位十二階や憲法十七条など」を制定したというから、よほど英明な君主だったのであろう。歴史家の間では既知の事実であるが、九州年号というのがある。年号は517年「継体」から始まり、善記・正和・教到・僧聴と続く。年号は切れ目なく続いてこそ「年号」としての意味があるのに、日本書紀では「切れ切れ」なのであるから不思議だ。ちなみに661年から683年までの23年間は、皆さんもよくご存知の「白鳳」という年号が続いている。この白鳳は時代呼称として「白鳳時代」などと美術史では呼ばれているが、この白鳳という言葉を「どこから持ってきた」のであろうか。この白鳳年号ひとつ取っても、九州倭国王朝の存在が明確に立証されると思うんだけど、無理かなぁ。他の年号は皆「1桁」の年数で改元しているのに、白鳳だけは「23年も長く改元されなかった」というので、何か理由があったのではないか、と考えられているのだ。この661年というのは「白村江大敗北」の前年である。此の時、唐の捕虜になった「筑紫君薩夜馬」が、郭務棕等2000人と共に日本に帰ってきたのが670年。その後に奇しくも壬申の乱が起きているから、そこには何か関連があると私は見ている(ちょっと先走り過ぎたようだ)。それはさておき、我々は「白鳳」と聞くと古都明日香の地に芸術文化が花開いた美しい時代を想像するのだが、実際は白村江敗戦のショックで大混乱の「バタバタの時代」であった、ということがこれで分かる。此の期間に改元が行われていなかったことは「改元する最高権力者」、すなわち大王が不在だったことを意味している。あるいは支配権を一時的に「唐によって制限されていた」とも考えられるではないか。・・・いかんいかん、また横道に逸れてしまった。とにかく多利思北孤は九州太宰府に君臨し、「上宮法王」と号していたのである。この上宮法王という呼び名にも「聖徳」の雰囲気が漂っていて興味深い。この多利思北孤の亡骸を収めたのが「現在の法隆寺」だろうと私は思っている。上宮法王は622年に亡くなっているから、法隆寺はその頃に建立されたものとも言える。

13、法隆寺再建の秘密
ところで、この俀国の仏教興隆にちなんだ話題を一つ。法隆寺の部材に描かれた戯画などと共に「6月肺出」という文字が書かれたものが見つかった。これは「彗星」のことらしく、天文学では6〜8世紀には「617年」のハレー彗星が該当するという。つまり現在の法隆寺は670年以降693年ぐらい迄の間に再建されたものではなく、もともと「617年頃に創建」された古い建物ということが分かってきたのだ。しかし670年に法隆寺が焼失したことは、日本書紀に書いてある通りである。では、再建された建物は670年以降に建てられたものではないのだろうか?。現在の法隆寺は建築基準に「大尺」を使用しており、他の奈良期の寺が高麗尺や唐尺を使用していて建築方法が異質である点が指摘されている。この大尺はもともと北九州の寺に多く見られる基準尺で、旧「観世音寺」なども大尺で建てられていたと考えられるそうだ。想像するに、法隆寺が雷で一屋余さず消失したことで、急遽旧観世音寺(現観世音寺の前身)を移築したのではないか、との説が有力である。その証拠として、法隆寺は旧観世音寺の遺構と「柱や建物の構造が一致」しているらしい(斎藤の言)。私は以前何処かで読んだ話に「法隆寺五重塔の心柱が長さが足りなくて宙ぶらりんになっているのを不思議に思って、試しに旧観世音寺に残されていた『塔心礎の遺構』を測ってみたらピッタリ不足分が埋まった」とあったのを思い出した。法隆寺は670年に焼けて失くなって、それから建て直したのだから617年頃の部材が使われているのは説明がつかないのだ。他にも法隆寺以外のの奈良期の寺と比べて「伽藍配置がやや窮屈」であり、これも法隆寺の元の敷地に旧観世音寺の建物を『無理やり入れた』からという説明が理にかなっている。法隆寺が移築されて再建なった頃は天智天皇の王権が天武天皇によって倒され、易姓革命が起きた頃と重なっている。近畿大王家出身の天智天皇が、白村江で大敗し瓦解した九州王朝に代わって日本の大王として一時的に支配権を持っていた時期は、唐の占領部隊が九州有明の地に監督官を送り込んでいた頃でもある。この662年の白村江事件以降の『7世紀末の日本の置かれた状況』は、唐の占領部隊=GHQが進駐する中で、大津宮の天智天皇グループが統治していた「占領統治下」の様なものだったのではないか、と私は考えている。これについては、もっと後で詳細に検討される予定である。

14、邪馬台国発見
この前、朝のワイドショーで台風の進路のパネルを見ていて「あれ?、福岡県って有明海まで突き抜けるのかぁ」と驚いた(あまりに無知ですいません)。そこで早速愛用のアイパッドミニ4のgoogle地図で確かめたら、佐賀市のすぐ南側を筑後川が流れていて、その南岸は「何と福岡県」なのである。ついでにあれこれ眺めていたら、ハタと気がついた。唐津のすぐそばを「松浦川」という川が流れているではないか!。三国志の陳寿一行が狗邪韓国から対島・壱岐と海路を南下して上陸したのは末廬国だが、私を含めて末盧国のことを「松浦市」だと信じ切っていた。しかし「この松浦川」を見て私は末廬国というのは「唐津ではないか」と直感したのである(都合の良い直感だ)。いままで考えていた『松浦市』では、同じく多久を目指すにしても、遠すぎるのである。唐津から魏志倭人伝に書いてある通り「東南」に行き、多久・小城を経由すると「佐賀市」に出る。邪馬台国当時は海岸線はもっと内陸に入っていたと思われるので、地図を上にスクロールしていくと「何とそこに吉野ケ里がある」ではないか!。つながった。陳寿は「此のルート」で邪馬台国を目指したのだ。『女王国以北は云々』という言葉も「実に自然に聞こえる」ほど、福岡中心部との位置関係もズバリ的中である。それで試しに「佐賀県やまと」と地名検索したら、居酒屋などの『店名』が10件くらいヒットした。地名はなかったが、店名のある場所が一箇所に集中しており、そこが嘉瀬川沿いの肥前国庁跡に近い「大和町」という一帯で、妙見神社や天満宮や船塚古墳などが周りを取り巻くように点在しているのだ。ここしかない、卑弥呼はこの辺りのどこかに眠っているのだ、と確信した(論理の飛躍が半端ない。バンザイ!)。ついでに筑後川を挟んで久留米市の方を眺めると、甘木市とか浮羽市とか朝倉市とかの「馴染みの地名」が目に飛び込んでくる。そこから高速道を辿っていくと、日田市・玖珠町を経て「由布院から大分へと」つながるのだ。古代「倭」の歴史が見えてくるではないか。日田市から北東へ向かえば宇佐神宮があり、甘木市からは田川・行橋・苅田という「京都郡(みやこぐん)」に着く。久留米から北に向かえば大宰府だ。つまり、ここは古代史の「まさに中心」なのである。北の大宰府・香椎そして姪浜から朝鮮半島を睨む「北九州のへそ」なのだ。卑弥呼の死んだ後に伊都国が倭国連合の首長として復活し、倭の五王時代を経て俀国として日本を統括するに至った政権は、「ズバリここに存在していた」に違いない!

・・・私はようやくひと仕事終えた気分で、愛用のマグカップに熱いコーヒーをたっぷり入れたのだった(いい気なもんだ!)。ちなみに、あの藤原氏の先祖は千葉県鹿島の宮司の出身と何処かに書いてあったが、佐賀市から有明海をぐるっと廻ると「あ〜ら不思議」なことに「鹿島市」があるではないか!。googleの地図をあれこれ1時間も眺めていて、はからずも「古代史の舞台を目の当たりにした」ことは実に新鮮な体験であった。まだまだ古代は生きている!

次回はいよいよ乙巳の変と天智天皇です。

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