明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

スポーツの醍醐味(1)オリンピックはスポーツの祭典、それともギャンブル?

2024-08-07 19:58:00 | スポーツ・ゴルフ
私はスポーツはゴルフしかやらないのでゴルフの話になってしまうが、試合は全て選手のやって来たことの結果、という事には変わりは無い。例えば最後の短いパットを外して100を切れなかった人はこう言うだろう、「あのパットさえ入っていればなぁ・・」。しかし1mのパットでも1打は1打、これがゴルフの醍醐味でもある。しかし周りのメンバーは口々に「惜しかったねぇ」と言いつつも、内心では「他にも反省することが山程あるだろう!」と思っているのだ。大体素人ゴルフは突っ込み所が満載だから、反省会が楽しいとも言える。しかし事が「オリンピック」となると話は全然違って来る。ちょっとした勝負の分かれ目でメダルが取れたり取れなかったりして「人生が変わる」と言う人もいる。単に「楽しかったねぇ」では済まないのがオリンピックなのである。

皆んなが楽しくなる筈のスポーツなのに、結果だけ見れば「多数の敗者」を作りだしてしまうオリンピック。その目的のズレの原因はどこにあるのだろうか。オリンピックを応援している我々の側にしてみればついついメダルが取れたとか取れなかったとか「結果を求めて」しまいがちだが、それが出場している選手に過大なプレッシャーを負わせる結果となって逆に十分なパフォーマンスが出せなかった、ということもある。応援する国民の側がそういうマインド一色になっている一方、千載一遇のビジネスチャンスと全社をあげてそこに付け込もうとする「マスコミ」が選手の必死の努力やドン底からの復活とか、あらゆる手を尽くして「感動のドラマ」を演出しようと躍起になるから、ますますオリンピックがスポーツからズレて行く、という構図である。もうそろそろこういう「浮かれたナショナリズムの発揚」に見切りをつけるべき時が来たんじゃなかろうか。

つまりスポーツはあくまで「個人の成績」であるべきだと思う。例えサッカーやバレーやバスケのように「チームで争う競技」であったにしろ、最終的には選手「個人個人」が一人ずつゲームを作り、ゲームの中で「自分の最高のパフォーマンスを発揮する」のがスポーツである。例え誰かに足を引っ張られても、或いは逆に「自分のミスでチームが敗れた」としても、その個人の力の総和が「チーム力」である。誰かのミスを他の誰かがカバーして、全体としてチーム一丸で戦う。だからスポーツであり、そこに途中経過を楽しむ「ゲームの本質」があると思う。ところがギャンブルでは「結果が全て」なのだ。何がどうあろうと「敗者には何もやるな!」の世界である。

オリンピックはスポーツなのか、それともギャンブルか?

この問いに答える前に、選手はどういう気持ちで試合に臨むのが「理想」なのか、そして観客はどのような気持ちで見るのが「正しい」のか、を分析してみようと思う。言わば、それぞれの立場別「正しい態度」を書いてみました。

① 選手
過去の記録や対戦結果は全て一旦忘れてゼロから試合に臨むことです。その上で自分の「ベストを尽くす」事、それだけだと思います。結果は試合が終ってから知れば良い、ぐらいの気持ちで充分なのではないでしょうか。もしも良い結果が出たならば、「神のご加護に感謝」する、が正しい姿勢ですね(仏教徒の方は念持仏などに読み替えてください)。例え負けたとしても「神を呪ったり」するのはもっての外です。なお、1番やってはいけないのは「結果を期待する」事ですね。期待は「百害あって一利なし」と知るべし!。勝負は時の運、結果は甘んじて受け止めて「次を目指す」のが正しい態度と言えるでしょう。勿論、心の中は「やり切った清々しさ」で満たされているのが理想ですが、何かミスして負けた場合にはどうしても「悔やみ切れない」という気持ちが人間です。だが、「あれをミスしなければ勝っていた」などと自分に都合の良いように考えるのは間違いです。自分が一回ミスを書き直せるのなら、ライバルも「一回書き直せ」なければ不公平でしょう。全ては自分の実力と思って無心に戦うのが第一ではないでしょうか。結果がどうあろうともオリンピックを精一杯楽しんで下さい。

② コーチ、サポートチーム
代表争いの時からずっと一緒にトレーニングして来た仲間でありチームです。ここは素直に代表になれたことを喜込んでいいでしょう。そして選手がベストコンディションで試合に臨めるよう、チーム一丸となってサポートし「一緒に戦う」姿勢が理想です。尚、結果については選手と同じ立場で苦楽を共にするのが良いんじゃないかな。

③ ファミリー及び友人達
これもむやみに結果を求めるのではなく、選手のベストパフォーマンスを「応援で後押しする」姿勢が大切だと思う。繰り返しになるが、最も大事なことは「結果を求めない」ことです。良くも悪くも結果は選手が「自分の力で勝ち取った」もの。子供がテストで100点を取った時の親の反応を想像すれば、大体近いものがあるんじゃないかと思います。仮に結果が出たならば「誇りに思う」、というのが正しい姿勢と言えるでしょう。もし結果が出なかったら・・・素直に「残念だったね」で終わりにしましょう、それが実力ですから。しかし最後に「でもカッコよかったよ!」と付け加えるのを忘れないように!

④ 個人的なファン
現実には選手とは何の関係も無い全くの赤の他人ですが、個人的に選手を応援してくれて、結果が出た時には喜びを共有してくれる有難い人々です。たとえ代表に選ばれなかったとしても変わらずに応援してくれるので、結果が出なくて精神的に弱ったりした時には「選手の心の支え」になってくれたりしますね。但し、余り入れ込み過ぎると「スポーツの範囲を逸脱」するので注意すること。尚、観戦している仲間から白い目で見られ易いので充分な自制心が必要です。一部、たまたま外国人を好きになったりした場合にも周りから「なんだよ!、敵を応援するのかよ!」などという理不尽な罵声を浴びる場合があるので、出来れば独りで「こっそり応援」するのが安全です。

⑤ 純粋な競技マニア
サッカーとかバスケットボールとかバレーボールとかその他のメジャーな競技では、自分の国が敗退してもそれ程興味を失わずに試合を見続けて、最後の決勝までゲームの行方を楽しむ人々が必ず一定数います(私は卓球の決勝が見たかったんだけど・・・)。彼等はどの国が勝つかは余り興味がなく、誰がどのくらい「凄いプレー」をしたかに興奮する癖があります。悪く言えば国別対抗戦という「オリンピック精神」には程遠い性格ですが、彼らにはワールドカップや世界大会と同じようなもんだと思われているのでしょう。当然ですが「国別メダル数」とかは完全無視です。

そして問題が次のカテゴリーに属する人達ですね。つまりオリンピックを支えている人達
、ということになるんでしょうか。

⑥ 一般的な国民
人数的には大多数を占めるんじゃないでしょうか。数あるスポーツイベントの中でオリンピックの「国別対抗戦」という性質がモロに出ていて、開催日が近づいて来ると夏の積乱雲のようにあちこちで突然湧いて来る「俄か」観戦者達です。ある意味、競技や選手個人の事はそれ程良く知らなくて、その代わり「勝ち負けやメダルに異常にこだわる」のがこの連中ですね。彼等は勝てば勝ったでメダル何個取ったなどと「選手そっちのけで」大騒ぎするくせに、負ければ誰々がミスしたからなどと「責任だけ負わされて」戦犯探しの標的にされる「選手にとっては何一つ良い事が無い、いらない応援」であることは間違いない。彼等は一応選手を応援しているつもりで熱心に盛り上がってはいますが、その実やっていることは「競馬競輪のギャンブルファン」と何ら変わらない精神状態なのですね。つまり、日本に限らずオリンピックに出る選手は全員、最終的にはこの手の「頑張れニッポン!」という合唱の為に走らされる競走馬みたいなもので、結局は彼等の目的=自国の勝利の為に「奉仕する奴隷」に成り下がるという訳です。勿論、自分から「国を背負って戦う」という選手もいるのは事実ですが、どちらにしても空虚なナショナリズムに毒された時代錯誤のファンに踊らされた結果が「国のメダル数を一つ足しただけ」というんじゃ、余りにも惨めじゃあないですか、そう思いませんか?

いや、選手はオリンピックに出るために4年間必死になって練習して来て、言わば「人生を掛けて」試合に臨んでいるのだ、と言う意見も少なからずあるのは事実です。メダルは選手にとって「人生に置いてこれ以上ない最高の勲章」という訳ですね。だから選手は一応表向きは「国の為」に戦ってはいるけれど、本心は「自分の為に」戦っている・・・という意見です。ところが中には自分のことよりも「国を代表して」戦うことに誇りを持っている選手もいるわけです。

例を卓球の「早田ひな」選手にとってみましょうか。彼女は利き腕に怪我をして注射してまで戦っていますが、「私はどうなってもいい」と発言しているといいます。つまり
a 試合は選手のためではなく国の為にある
b 試合は一番勝てそうな選手が出るべきだ
c 怪我をしても早田が一番勝てそうである
d だから「選手がどうなってもいい」ので、怪我を押して試合に出すべきである

・・・これってもはやスポーツと言えるでしょうか?。私は大いに疑問です。大体、戦う相手に失礼じゃないですか。ライバルは勝っても「相手が怪我してるんじゃなぁ」と評価されないし、早田は負けても「怪我さえなければ・・・」と慰められるわけです。公平じゃないですよね?。私は早田が勝てそうかどうかは別にして、注射打たなければラケットが振れないのであれば「リザーブの選手」が出るべきだと思います。選手はベストな状態で試合に出るべきですし、観客も「それを望んでいる」と私は想像します。

・・・とまあ、色々な立場の人々が関わっているオリンピックですが、問題は開催が「4年に一度」ということです。要するに「滅多にないチャンス」だからこそこのチャンスを「逃したら次はないぞ!」となって、選手は自らを追い込んでしまうのだと思います。これがサッカーやテニスや体操や水泳など、多くの競技で世界大会やワールドツアーをやっていて、オリンピックに匹敵する世界規模の有名大会も「毎年行われている」のが現状です。私はサッカーのチャンピオンズリーグを毎年楽しみにしてますが、今年ダメなら来年があるさ・・・と考えることが大事じゃないでしょうか。練習して試合して、失敗してまた練習する。それが自分のスキルを高める「唯一の方法」でしょう。全てのスポーツの目的は「上手くなる」こと、決して目の前のライバルを「打ち負かす」ことではない筈です。

・・・・・・・・・

結論:オリンピックとはつまる所「選手のメダル争いの場」であり、それ以上でもそれ以下でもないと思いました。メダルを取れれば無邪気に喜び、取れなければ「あいつはメダルを取れていいよなぁ〜」と悔しがって終わり。数ある試合の中の一つ、それだけですね。だから開催も「毎年」にして、お金を掛けずに「ゆる〜く」試合をする方向で検討しましょう。出場資格その他についてはとりあえず現状のままで構わないとして、とにかく選手を「日本代表」と持ち上げて無闇に「ナショナリズム」を煽るのはやめにしませんか?。それと「国歌斉唱や国旗掲揚」もやめて、メダルはあくまで「個人名で授与」する方式に変更するのが良いと思います。選手は「自分の為に」メダルを取りにオリンピックに行ってるということをもっとハッキリ明確にして、国民はそれを「暖かく見守る」程度に応援する、というのが正しい観戦態度ですね。もう令和の時代に「日本のメダル数は・・・」なんて感覚は古すぎます。

以上、私のオリンピック試論でした。

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