明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

古代史喫茶店(37)最新の学説「邪馬台国の最終定理ー宮崎照雄著」を読む(その7)読み終わって・・・

2024-01-02 12:26:00 | 歴史・旅行

確かに宮崎氏の論理は「理系の証明好き」の書き方?のようにも思えないでもない。ただこれは私も大いに反省すべき点だが、自説の正しさを主張する余りに「他の説に十分に目が行き渡ら」なくなって、その結果見た目では「丁寧に他説の弱点を指摘する」努力が少し足りないように感じた。悪く言えば「独りよがり」風に受け取られるのではないか、勿論私の読解力の不足だとは思うが。


特に前半の邪馬台国の位置の解釈においては「細かい文言に引きずられて迷路にハマる」という私の古代史研究のクセが災いしてか、今まで疑問に感じていた点を十分に解き明かしてくれなかったのが残念である。例えば何故魏使一行は、末盧国から伊都国に行くのに「草深くして行くに前人を見ず」といった草ボーボーのルートを通らなければならなかったのか?、という謎である。まるでこれまで一度も人が通った事がないような書き振りではないか。


魏からの遣使は初めてかも知れないが、今まで遼東半島に勢力を張っていた公孫氏とは親密に通商していたわけだから、当然行き交う道など「整備されている」筈である。それが前人を見ずといった未開のルートを通らざるを得なかった点が「私は気になる」のだ。例えば倭国で内乱が勃発して「本来のルートを使えなかった」という可能性が考えられる。ならばその「本来のルート」とは何処にあって、どういう経路を辿って何処に行っていたのか?、である。これが気になる。


或いは邪馬台国自身は直接海外と通商した事がなく、倭国と半島との通商ルートは別にちゃんとした道が出来ていて今回初めて女王に贈り物を渡すので「普段は通らない道」をわざわざ通って、近道をして行ったとも考えられない訳ではない。いずれにしても戸数7万戸という大国の割には、人跡未踏の山道を草を掻き分け掻き分け通って行くというのはどうしても納得がいかない。何か理由がある筈である。


他にも倭の五王については、武王は上表文で東と西と海北は平らげたことを鼻高々に報告しているのに「南は何故か知らんぷりで無視」である。これはどうしたことだろう?。南は海に面しているので対象外だった、という可能性もなくはない。或いは南は人が住んでいない地域で、攻め入るほどの価値も無いのかも知れない。或いは南には倭国と同程度の大国があって、そことは昔から平和な友好関係にあったのかも。何にしても謎である。


またもっと後の出来事だが、天武天皇が壬申の乱の時に赤色の旗印を使用していて、卑賤の身から天下を取った中国の漢の高祖(間違えたらすいません)に我が身をなぞらえた、という話が日本書紀に書いてあるらしいが、そもそも敵の大友皇子は天智天皇の子供だから「甥」な訳で、親戚同士の戦いに「自分の出自を前面に押し出すというのは如何にも通らない話である、等々だ。


こういう「ちょっとした疑問を、明快に解き明かしてくれる説明」をしてくれるなら、私は諸手を挙げて大賛成なのだが・・・残念ながらそういう人は滅多にいない。まあ、本人は自信を持って新説をリリースしてる訳だから、自説の正しさを説明するのに「興奮冷めやらない」のは十分に理解出来る。だがそこを一歩引いて他人の説にも敬意を払い、ただ理論の弱点については冷静に分析して「この考え方では、カクカクシカジカの理由でこの部分を上手く説明できない」という風に弱点を完璧に論破し、翻って自分の説では「このように説明出来る」と比較対照して書いてくれれば最高なのだが。宮崎照雄氏の学説は、その点ではまだまだ私の「素人感覚」を完璧に掴むまでには至ってなかったように思う(随分偉そうに言ったがあくまで素人、個人の感想に過ぎません。宮崎さんごめんなさい)。


最後にこの本は、前半は邪馬台国の場所の特定を書き、後半は卑弥呼と台与の実像といった章立てになっている。前半の場所については色々と新しい論理を展開したように見えるが、結局は今までも候補に上がっていた吉野ヶ里に落ち着いた。後半は私が興味がなかったこともあってか、余りに話の内容が「具体的過ぎて」頭に入ってこなかったのは期待外れである。卑弥呼の殺害のドラマチックな描写や「天の岩戸の解釈」などは私はどうでもいいので、むしろ卑弥呼が「魏の曹操と宗教的な繋がりがあった」とする斎藤忠先生の「歴史の大局観」の方に興味津々だ、と言っておこう。


まあとにかく古代史はまだまだ続く。次は誰がどんな理論で難問を解決してくれるのか、楽しみである。さあ次に行くとしよう、次!



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