第4位、 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあれば また還り見む
有間皇子は孝徳天皇の息子で、母は阿部氏の小足姫と伝えられる。阿部氏というのは継体・宣化天皇の時代の有力部族の一つで、大麻呂は「大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ重臣」とネットに書いてあり、蘇我馬子の側近として麻呂が登場していることから、政権の中枢にいたのではないかと思われる。乙巳の変でクーデターを起こした孝徳天皇の新政権では、左大臣となったのは阿部氏の倉梯麻呂である。倉梯麻呂の娘は、一人は小足姫で孝徳天皇の子「有間皇子」を生み、もう一人の橘姫は天智天皇に嫁いでいたあたりを見ると、阿部氏は次期政権への足固めも着々と進めていた「No.2」の実力者と言えるのではないか。ちなみに「天の原 ふりさけみれば」の歌で名高い阿部仲麻呂は、阿部氏から出た疋田比羅夫の曾孫である。阿部氏は奈良時代には勢力を保っていたが、徐々に藤原氏などの新興勢力に押されて衰退し、平安中期に「例の安倍晴明」が出るまでは、歴史から消えてしまっていた。
歴史では有間皇子は、自分の身の危険を避けるために「心の病」を装っていたとある。乙巳の変で天皇位が軽皇子(孝徳天皇)に移った段階では、中大兄皇子が皇太子だった。政治の中心を難波宮へ移して、矢継ぎ早に改革を断行した孝徳天皇に対し、取り敢えず古人大兄皇子を皇太子レースから除きたかっただけの中大兄皇子の現状維持路線では、余りに政策が違っていてついて行けなかったのだろう。或いは孝徳天皇に一旦は政権を移譲しておいて、その後、頃合いを見て政権を自分の手に取り戻す計画だったとも言える。そんな計画を持っていた中大兄皇子にしてみれば、有間皇子は一刻も早く除きたいライバルであろう。有間皇子の後ろ盾が今ひとつはっきりとしないが、阿部氏は水軍を持っているとも言われており、力は十分ある筈なのに有間皇子が実家に匿われた形跡がないのが疑問である。まあ中大兄皇子・天智天皇の生涯は(大海人皇子のちの天武天皇と共に)、「古代史最大の謎」だから解らないことだらけなのはしょうがないが、蘇我赤兄の甘言に「あっさり乗った」ところを見ると、有間皇子も脇が甘いと言われても仕方ない部分はある。
そんな政治音痴の有間皇子だからこそ、このような絶唱を残す「文化的素養」があった、と私は考えたい。有間皇子が牟婁の湯につかり、心の病がきれいさっぱり治ったことを斉明天皇に報告したら、その湯に興味をもった天皇が中大兄皇子と共に行幸した。その隙に謀反の計画を練ったことが露見して、いとも簡単に逮捕されてしまう(蘇我赤兄の謀略)。余りにも純粋というかナイーブというか、疑うことを知らない正義感の強い好青年ではないかと思うのは私だけではないだろう。老獪な陰謀家の中大兄皇子にして見れば、こんな無防備な若者を「騙して引っ掛けること」ぐらい、お茶の子さいさいなのだ。有間皇子は権謀術数渦巻く政治の世界に生きるのではなく、花鳥風月を愛する「ロマン溢れる古代詩人」になって欲しかった、というのが私の偽らぬ夢である。
資料がなくて殆ど人物については分からないが、この辞世の歌を残したことで、有間皇子は永遠の生命を得た。前途ある青年の砕け散った無残な生涯を、これほど端的に短い言葉に表したものは、有間皇子の歌の他には私は知らない。正に絶唱と言うにふさわしい。なお、処刑されたのは和歌山県海南市藤白の坂であるが、この歌を詠んだのは途中の日高郡みなべ町西岩代だという。一度行ってみたい歌枕の一つでもある。余談だが、いずれ念願の奈良住まいが実現すれば、ちょっと日帰りで訪れるのも簡単だ。とまれ、彼にはこれから連れて行かれる場所で中大兄皇子の尋問を受ければ、もう二度とここに帰ってくることは出来ないと分かっていた。だから「ま幸くあらば」と、不可能の願望を歌ったのである。19才だった。
この辞世の歌に関しては、折口信夫は「後世仮託説」を唱えている。この説、ホントかどうかわからないが、例え何処かの文書に彼の歌ではないということが記録されていて、それが偶然にも発見されたなんてことがあるとしても、私は彼が「実際に詠んだものだ」と思いたい。仮に後世の別人の作だとしても、この歌の背景なり作歌状況を、これほど見事に「あつらえた」とすれば、それはそれで相当な劇作家の才能があると見なければならないだろう。謀反という冤罪で死刑判決を受けに死地へと向かう主人公。その無念の心情を浜辺の松の枝に託して、叶わぬ願いを人知れず託した「願掛け結び」が痛々しい。その結びをじっと見上げる瞳には、これから自分を待っている過酷な刑罰の暗い影が宿っていた・・・。
何とドラマチックな構図であろうか。
ただし彼の死後、「俊頼髄脳」という和歌のエピソード集には、父孝徳天皇と喧嘩して家出した際の歌とされたり、江戸時代の百人一首注釈書には「後に天皇」と書かれていたり、色々尾ひれがついているようである。どちらにしても、藤原定家による百人一首が「正月のカルタ遊び」になっていなければ、これほど世間に知られることもなかったわけで、今更ながら定家の功績には頭が下がる思いである。
有間皇子の歌人として力量は、それほど大したものでは無いと思う。作歌技法もシンプルに己の心情を吐露しているだけで、特別に読む人の感情の琴線に触れる「言い回し」があるわけでもない。単純な歌と言ってしまえばそれまでだが、本来歌というものは出来上がった作品と、謳われた状況とが、相互に緊密につながっていて初めて「ドラマ」として成立するものだと理解している。日常の中の一部分を切り取って、その背景や人間の感情を一つのドラマに仕立て上げ、そのドラマを何度でも味わうことが出来るように形を与えたのが「歌」なのである。だから、誰がいつどこで作ったか分からないような読み人しらずの歌は、どんなに優れた表現で技巧を散りばめてあろうとも、名歌と呼ぶだけの「感動」が伝わってこないのだ。感動とは「真実」のことである。作家が「その時その場面で得た感情」をそのまま歌にした時、技術に上手いか下手かの差はあろうが、それによって引き起こされる感動には、違いがないと私は思う。
よって、この有間皇子の歌は、どうしても辞世の歌でなくてはならないのだ。彼の人生がドラマチックなものに終われば終わるほど、その心の純粋さ気高さが際立ってくる。彼を護送してきた役人たちも松の枝に願掛けする皇子を見て、人知れず袖を拭ったことだろうと思う。彼らも冤罪であることを知っていたのだ。冤罪なのにどうしようも出来ず、死刑になってしまう理不尽。これが人間の悲しい運命である。有間皇子にとっては、孝徳天皇の忘れ形見であることが全てだった。その一種諦念にも似た感情の中に「もしも」と1%の望みを掛けた気持ちが、「ま幸くあらば」の意味である。それが叶えられずに絞首刑になると知った時、彼の心にはもう驚きはなかった。
辞世の歌などという習慣は現代にはないが、もし皆んな死ぬ時には「歌を作る」って決まりになってるとしたら、きっと前々からカッコいいのを作って用意しておくだろうと思う。或いは自分に才能とか自信がない人は、金を払って代作を頼むのが流行るかも知れない。何しろ「作り直し」が利かない一発勝負なのだ。それなら目端が利く人は、保険をかけておくのは当然である。有間皇子の場合は青天の霹靂だから、前もって作っておくことは出来なかっただろう。極限までに切迫した状況が、この歌を唯一無二の作品に押し上げている。彼は「これ一作」で文化芸術の歴史に名を残した。私も彼のように名を残したい気持ちはいっぱいだが、ドラマチックな生涯がないから無理だろう(無理無理!)。彼はもし冤罪で絞首刑などになっていなければ、政治に首を突っ込んだりせず、華やかな恋の歌や美しい四季の歌などを作って「人々の喝采」を浴びていたんじゃないかと想像出来る。若き貴公子で歌が上手とくれば、女の子にも人気があったに違いない。惜しい若者を失ったものである。有間皇子の冥福を祈る。
おまけ:歴史のウソ
とにかく中大兄皇子に限らず「謀反の疑いをかけて相手を除く」というのが、この時代の常道だったようだ。天智天皇が大海人皇子を病床に呼んで「心の内を読もうとした」というのは有名な話であるが、天智天皇がライバルと思っていたのなら「そんな小細工をせずに」謀反の罪を着せる事ぐらいは朝飯前であったろう。皇位は息子の大友皇子が継ぐことで、諸部族は了承していた。だから大海人皇子は「皇位を狙う気など全く有りません」と言わざるを得なかったのだ。つまり大友皇子は「天皇になっていた」のである!(これ、教科書には書いてないが、私は真実だと考えている)。
有間皇子は孝徳天皇の息子で、母は阿部氏の小足姫と伝えられる。阿部氏というのは継体・宣化天皇の時代の有力部族の一つで、大麻呂は「大伴金村・物部麁鹿火・蘇我稲目に次ぐ重臣」とネットに書いてあり、蘇我馬子の側近として麻呂が登場していることから、政権の中枢にいたのではないかと思われる。乙巳の変でクーデターを起こした孝徳天皇の新政権では、左大臣となったのは阿部氏の倉梯麻呂である。倉梯麻呂の娘は、一人は小足姫で孝徳天皇の子「有間皇子」を生み、もう一人の橘姫は天智天皇に嫁いでいたあたりを見ると、阿部氏は次期政権への足固めも着々と進めていた「No.2」の実力者と言えるのではないか。ちなみに「天の原 ふりさけみれば」の歌で名高い阿部仲麻呂は、阿部氏から出た疋田比羅夫の曾孫である。阿部氏は奈良時代には勢力を保っていたが、徐々に藤原氏などの新興勢力に押されて衰退し、平安中期に「例の安倍晴明」が出るまでは、歴史から消えてしまっていた。
歴史では有間皇子は、自分の身の危険を避けるために「心の病」を装っていたとある。乙巳の変で天皇位が軽皇子(孝徳天皇)に移った段階では、中大兄皇子が皇太子だった。政治の中心を難波宮へ移して、矢継ぎ早に改革を断行した孝徳天皇に対し、取り敢えず古人大兄皇子を皇太子レースから除きたかっただけの中大兄皇子の現状維持路線では、余りに政策が違っていてついて行けなかったのだろう。或いは孝徳天皇に一旦は政権を移譲しておいて、その後、頃合いを見て政権を自分の手に取り戻す計画だったとも言える。そんな計画を持っていた中大兄皇子にしてみれば、有間皇子は一刻も早く除きたいライバルであろう。有間皇子の後ろ盾が今ひとつはっきりとしないが、阿部氏は水軍を持っているとも言われており、力は十分ある筈なのに有間皇子が実家に匿われた形跡がないのが疑問である。まあ中大兄皇子・天智天皇の生涯は(大海人皇子のちの天武天皇と共に)、「古代史最大の謎」だから解らないことだらけなのはしょうがないが、蘇我赤兄の甘言に「あっさり乗った」ところを見ると、有間皇子も脇が甘いと言われても仕方ない部分はある。
そんな政治音痴の有間皇子だからこそ、このような絶唱を残す「文化的素養」があった、と私は考えたい。有間皇子が牟婁の湯につかり、心の病がきれいさっぱり治ったことを斉明天皇に報告したら、その湯に興味をもった天皇が中大兄皇子と共に行幸した。その隙に謀反の計画を練ったことが露見して、いとも簡単に逮捕されてしまう(蘇我赤兄の謀略)。余りにも純粋というかナイーブというか、疑うことを知らない正義感の強い好青年ではないかと思うのは私だけではないだろう。老獪な陰謀家の中大兄皇子にして見れば、こんな無防備な若者を「騙して引っ掛けること」ぐらい、お茶の子さいさいなのだ。有間皇子は権謀術数渦巻く政治の世界に生きるのではなく、花鳥風月を愛する「ロマン溢れる古代詩人」になって欲しかった、というのが私の偽らぬ夢である。
資料がなくて殆ど人物については分からないが、この辞世の歌を残したことで、有間皇子は永遠の生命を得た。前途ある青年の砕け散った無残な生涯を、これほど端的に短い言葉に表したものは、有間皇子の歌の他には私は知らない。正に絶唱と言うにふさわしい。なお、処刑されたのは和歌山県海南市藤白の坂であるが、この歌を詠んだのは途中の日高郡みなべ町西岩代だという。一度行ってみたい歌枕の一つでもある。余談だが、いずれ念願の奈良住まいが実現すれば、ちょっと日帰りで訪れるのも簡単だ。とまれ、彼にはこれから連れて行かれる場所で中大兄皇子の尋問を受ければ、もう二度とここに帰ってくることは出来ないと分かっていた。だから「ま幸くあらば」と、不可能の願望を歌ったのである。19才だった。
この辞世の歌に関しては、折口信夫は「後世仮託説」を唱えている。この説、ホントかどうかわからないが、例え何処かの文書に彼の歌ではないということが記録されていて、それが偶然にも発見されたなんてことがあるとしても、私は彼が「実際に詠んだものだ」と思いたい。仮に後世の別人の作だとしても、この歌の背景なり作歌状況を、これほど見事に「あつらえた」とすれば、それはそれで相当な劇作家の才能があると見なければならないだろう。謀反という冤罪で死刑判決を受けに死地へと向かう主人公。その無念の心情を浜辺の松の枝に託して、叶わぬ願いを人知れず託した「願掛け結び」が痛々しい。その結びをじっと見上げる瞳には、これから自分を待っている過酷な刑罰の暗い影が宿っていた・・・。
何とドラマチックな構図であろうか。
ただし彼の死後、「俊頼髄脳」という和歌のエピソード集には、父孝徳天皇と喧嘩して家出した際の歌とされたり、江戸時代の百人一首注釈書には「後に天皇」と書かれていたり、色々尾ひれがついているようである。どちらにしても、藤原定家による百人一首が「正月のカルタ遊び」になっていなければ、これほど世間に知られることもなかったわけで、今更ながら定家の功績には頭が下がる思いである。
有間皇子の歌人として力量は、それほど大したものでは無いと思う。作歌技法もシンプルに己の心情を吐露しているだけで、特別に読む人の感情の琴線に触れる「言い回し」があるわけでもない。単純な歌と言ってしまえばそれまでだが、本来歌というものは出来上がった作品と、謳われた状況とが、相互に緊密につながっていて初めて「ドラマ」として成立するものだと理解している。日常の中の一部分を切り取って、その背景や人間の感情を一つのドラマに仕立て上げ、そのドラマを何度でも味わうことが出来るように形を与えたのが「歌」なのである。だから、誰がいつどこで作ったか分からないような読み人しらずの歌は、どんなに優れた表現で技巧を散りばめてあろうとも、名歌と呼ぶだけの「感動」が伝わってこないのだ。感動とは「真実」のことである。作家が「その時その場面で得た感情」をそのまま歌にした時、技術に上手いか下手かの差はあろうが、それによって引き起こされる感動には、違いがないと私は思う。
よって、この有間皇子の歌は、どうしても辞世の歌でなくてはならないのだ。彼の人生がドラマチックなものに終われば終わるほど、その心の純粋さ気高さが際立ってくる。彼を護送してきた役人たちも松の枝に願掛けする皇子を見て、人知れず袖を拭ったことだろうと思う。彼らも冤罪であることを知っていたのだ。冤罪なのにどうしようも出来ず、死刑になってしまう理不尽。これが人間の悲しい運命である。有間皇子にとっては、孝徳天皇の忘れ形見であることが全てだった。その一種諦念にも似た感情の中に「もしも」と1%の望みを掛けた気持ちが、「ま幸くあらば」の意味である。それが叶えられずに絞首刑になると知った時、彼の心にはもう驚きはなかった。
辞世の歌などという習慣は現代にはないが、もし皆んな死ぬ時には「歌を作る」って決まりになってるとしたら、きっと前々からカッコいいのを作って用意しておくだろうと思う。或いは自分に才能とか自信がない人は、金を払って代作を頼むのが流行るかも知れない。何しろ「作り直し」が利かない一発勝負なのだ。それなら目端が利く人は、保険をかけておくのは当然である。有間皇子の場合は青天の霹靂だから、前もって作っておくことは出来なかっただろう。極限までに切迫した状況が、この歌を唯一無二の作品に押し上げている。彼は「これ一作」で文化芸術の歴史に名を残した。私も彼のように名を残したい気持ちはいっぱいだが、ドラマチックな生涯がないから無理だろう(無理無理!)。彼はもし冤罪で絞首刑などになっていなければ、政治に首を突っ込んだりせず、華やかな恋の歌や美しい四季の歌などを作って「人々の喝采」を浴びていたんじゃないかと想像出来る。若き貴公子で歌が上手とくれば、女の子にも人気があったに違いない。惜しい若者を失ったものである。有間皇子の冥福を祈る。
おまけ:歴史のウソ
とにかく中大兄皇子に限らず「謀反の疑いをかけて相手を除く」というのが、この時代の常道だったようだ。天智天皇が大海人皇子を病床に呼んで「心の内を読もうとした」というのは有名な話であるが、天智天皇がライバルと思っていたのなら「そんな小細工をせずに」謀反の罪を着せる事ぐらいは朝飯前であったろう。皇位は息子の大友皇子が継ぐことで、諸部族は了承していた。だから大海人皇子は「皇位を狙う気など全く有りません」と言わざるを得なかったのだ。つまり大友皇子は「天皇になっていた」のである!(これ、教科書には書いてないが、私は真実だと考えている)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます