明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

スポーツの醍醐味(2)オリンピック論・・・その2(現実編)

2024-08-08 22:03:00 | スポーツ・ゴルフ
前回、オリンピックは「安直なナショナリズム」の上に成り立っている、と書いた。しかし実際は、選手は皆んなメダルが欲しい訳です。「人生を掛けてる」とまで言い切る選手も中にはいるが、選手は其々「期待を胸に」遥々パリまで行っている筈なのだ。だからこそ悲喜こもごものドラマも生まれる。選手、コーチとサポートチーム、家族や友人、個人的ファンと競技ファン、それぞれ立場が違っても「応援する選手」がオリンピックでメダルを取ることを待ち望んでいる事には、皆んな変わりは無いでしょう。

ところがオリンピックの「俄か応援団」である一般国民(曰く、似非ナショナリスト)だけは応援する姿勢が「全く別」なのである(これは私の前回のブログ記事で詳しく書いているので参照ください)。彼等は自国が勝つこと「自国がメダルを取ることだけ」に執着し、個々の競技や選手の成績には「殆ど興味が無い」という特徴がある。そして勝てば英雄で万歳三唱、「負ければ非国民」のレッテルを貼って、今や誰もが発信出来る便利な道具のSNSで拡散し、いかにも「国民を代表して応援している」かのように一体感を丸出しに振る舞うのである。これがオリンピックの真実、「IOCの裏の顔」なのだ。それにまんまと乗せられて金だ銀だと浮かれている我々から、実はコッソリ「莫大な金(カネ)」を掠め取っていくのがIOCという訳である・・・勿論、マスコミも同罪であるのは言うまでもない。

我々単純なイベント好き・スポーツ好きの人間は、このオリンピックというイベントの裏に隠された「ブラック・ビジネスの罠」からどうやったら逃れられるのか?。それを今回「プロとアマチュア」という視点から考えて見たいと思います。

1、プロの定義
その競技を「生業」としている人で、選手としての価値・評価は(市場経済下では)「価格」で表される。要するにサッカーなら移籍金、バレーやバスケットや卓球なら所属チームの給料などだ。当然、ゴルフのように「賞金」で代替される場合もある。ポイントは、選手本人の評価が「競技の成績」でなされる点である。

2、アマチュアの定義
本業は別にあり、あくまで競技は「遊び」だ。成績に対する評価が「お金ではなくて名誉」になる点がプロとは異なるのである。尚、オリンピックでは名誉を表すのに「金・銀・銅のメダル」を授与している。つまりノーベル賞と並んで世界中の誰もが知っている「最も権威のある賞」がオリンピックのメダルというわけだ。但し、これはあくまで本業があっての「遊び」の表彰なので、選手個人の本来的な価値は「本業で評価され」なければならない。例えばラーメン屋の店主がいくら「書道で1等賞」を取ったとしても全然尊敬されないのと同じである。書道は遊び、ラーメン店主の評価は「ラーメンで決める」のがルールだ。それがアマチュアリズムの「核心」なのである。

プロとアマチュアの試合は上記のようにそれぞれシステムに違いがあって、プロの試合はしっかりとした市場価値の下に「エンタテインメント」としてビジネスモデルが確立されているから、演出で観客が「一緒になって戦う気分」を盛り上げるのは常道だ。中には熱くなりすぎて試合後にSNSで「誹謗中傷に近い書き込み」をするファンも一部にはいるようだが、これもある程度のことは「お咎め無し」とされるのが通例のようである。むしろ選手と観客が「一体」となって試合を楽しむのが「イベント側の狙い」なのだ。だが、オリンピックは「アマチュアの祭典」である。プロと違って選手は観客に「何の義務も負って」いない。当然、試合の結果を「ファンから責められる」謂れは「絶対にあってはならない」のである。それを一部の国民が誤解・混同・勘違いしてしまい、自国の代表を「自分と一体のもの」と履き違えるから問題になるわけだ。

選手はあくまでアマチュアだから、例えオリンピックであろうとも「建前上」は遊びで参加している。本業は営業マンだったり建築士だったり、あるいは医療関係者だったり清掃業者ということも全然あり得る。当然、無報酬だ。これにSNSで誹謗中傷的な書き込みをすれば「そんなに言うんなら自分でメダル取ってこいや、このカスが!」と応酬されてしまうだろう。昔、水泳の「千葉すず」が心無い書き込みでを行った者に言い返した「正論」である(実際はもっと柔らかい言葉だったと思うが、彼女の「内心の怒り」を表現してみました)。私はこの言葉が全てを物語っていると思います。

つまり「そんなに言うんなら、あなたがやれば?」である。

オリンピアンは報酬を貰って出ている訳では無いから責任も当然無い。あるのは今まで努力してきた練習への自信と「少しばかりの期待」だけ。これが私の主張する「オリンピックは選手の祭典」という意味なのである(最近はこの区別も曖昧になって来ているようですが、基本はあくまでアマチュアの祭典です)。

(続く)その3「理想編」では、このような現実を踏まえた上で、私の提案する「理想」のオリンピック論を書いてみたいと思います。


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