和翠塾ブログ

目黒都立大にある書道教室「和翠塾」のブログです。

プラトンの『美』について その2

2014-10-17 08:45:08 | 日記
『美』は『神』や『上』や、あるいは『森羅万象』からおりてきて、それに触発されて創作する者を『芸術家』と定義するとわかりやすいかもしれません。

その降りてくるものの中には『狂気』もあるのです。

私は芸術の源を『狂気』だと発言したことがありますが、ある芸術家は『狂気を肯定してはいけない』と言います。

深い言葉です。

創作者、芸術家にとって『狂気』は、ふりかけ程度でいいかな、と。
それもあくまでうちうちのこととして。

少し、反省。


これは正に江戸川乱歩の世界なのです。

芸術の源は表裏一体。
しかしそれは我々の勝手な解釈であって、『神』や『上』、『森羅万象』にとっては区別をつけることではないのです。

常に受け取りやすい状態に稽古したり、鍛錬したりするのは、プロのプロたるゆえんとの言葉にすっきりしました。

先達の言葉に感動した朝なのでありました。





ヨーロッパの美についての見方

2014-10-17 07:44:06 | 日記
その基本はプラトンの美に対する見方が基本とのことです。

ではプラトンの美に対する見方とはどのようなものなのでしょうか。

芸術家は自ら美を生み出すのではなく、神から与えられた物を表現しているに過ぎない。
そしてその表現された美に、人々は惹かれる。
ということのようです。

つまりここには芸術家それぞれの個性という物は無く、そう見えるものも感覚も含めて全て神から与えられた、いわゆる『ギフト』であるというのです。

抵抗感無く受け入れられることに少し驚きます。

芸術家はその創作意欲について語るとき、『天から降ってきた』とか『上から降りてきた』と表現します。

これはつまり個性とはまるきり違うことなのです。
『降ってくるもの』『降りてくるもの』を感じる個体差はあっても、『美』を創り出しているわけではないのです。

個性を否定することこそ、芸術に近づくことであり、自分の中にある物を個性としてとして引っ張り出し、それこそが『美』であると思うことが一番芸術から遠い事だというのです。

個性なんて『美』とも『芸術』とも関係ない、時に相反するものであるというのです。

なるほど、、、、

神や天から降りてくる物をつかむことができる能力を磨くことが稽古の本質なのでしょうか。

確かに『美』や『芸術』に個性は関わり持たない方が良いのです。
関わった段階ですでに、『美』や『芸術』とは別な意図的な物になってしまうからです。
本来美術館には個性が関わったものは展示して欲しくはないのですが、そうもいかないでしょうね。

個体数が少なすぎることと、一般の人々に受け入れられないものがとてつもなく多いはずですから。

『美』や『芸術』には本来、時代によって変化するモラルはないのです。

『美』や『芸術』は普遍的なものなのです。
それだけに、時代によっては美術館の倉庫に封印しなければならないものが多いのです。

では個性を発揮した作品展とはどのようなものになるのでしょうか。

それは『その時点での個体差の認識が出来る物』に他なりません。

技術や知識のレベル、認められたい目立ちたい、名誉や金銭が欲しいなどと言った、その時点での、心身の能力や欲の状態で変化するものなのです。

『美』に似せかけて作られていますが、それは普遍的な『美』とは全く真逆のものなのです。

簡単に言えば贋作です。

しかし贋作でも、作者が一心不乱に作った物には、作者の葛藤という個体の感覚が込められていて、そこを愛でる感覚も、愛でる者個体のものです。

ここは『美』とは全く違うステージでの話しなのです。

なんだか上手くプラトンの『美』についての話がまとまりませんでしたが、いかがでしたか?(笑)


作品を作るとき、上手く書こうとか、芸術っぽくしようとかしちゃだめです。

おりてくるまでまたなくちゃだめです。

じゃどういう感じが降りてきた感じがなのか?

それは書きたいと感じた時です。

準備して気持ちを高めて、感覚を鋭敏にして書きたくなり時もあれば、ふと寝起きや散歩している最中に書きたくなる時もあるのです。

だからこそ文房四宝は重要ですし、作法も大切なのです。

身を正し、心を正したところに、漂う墨の香りと空気が受け取る私たちの準備を促してくれるのです。

それでも受け取れない時もあります。

その時は次のタイミングを待ちましょう(笑)

そんなものだと思います。