断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

経済金融、法律、実物資源の区別と関係(ただし実物資源の話は今回はない)

2022-04-08 18:02:31 | MMT & SFC
MMT派とそうでない人たちの議論を見ていて感じることの一つは、法律と経済の関係をどのように考えるべきか、という点である。法律は様々な意図や目的で制定されているけれど、実際にその果たしている機能は目的や意図とは全く違うものになり得る。とりわけ経済金融制度面ではそうしたことが大きい。この点を論じることがMMTの当初からの中心論題の一つだ。

思い起こしてもらいたいけれど、そもそもMMTの出発点はモズラーが金融市場で行われている政府・連銀のオペレーションが通常言われているものと全く違っていることに気が付いたところから出発している。そして彼は通貨はすべて債務であり、そして中央銀行の発行する準備通貨も、それを準備通貨として法律が定めているから流通し、政府に対する納付手段となっているのではなく、政府が税納付の手段として連銀の準備通貨を定めるから、それが実質的に国内における最終的な決済手段として流通しているのだ、ということを理解した。裏を返していうなら、中央銀行が中央銀行として機能することができるのは、政府がその準備通貨を納税手段として指定しているからであり、もっと言えば、政府が主たる政府預金口座をそこにのみ開設しているからだ。実際にはアメリカの場合、政府はTT&L口座を民間銀行に開設し、納付された税金の一部を準備通貨によって政府口座に移さなくても済ませるようにして民間銀行および連銀のオペレーションの負担を減らしている。が、それはまさに政府がこうした徴税制度を収入/支出のためにではなく、金融を安定させるために使っている証拠であるに過ぎない。法律的には準備通貨が法貨と定められているから政府はそれによる納付を求めているように見えるけれど、実態は逆だ。これがMMTの出発点となった事実だった。
 
この点で、サーキュレーショニストCTはMMTと顕著な対照を示している。先ごろA. パルゲの訃報が届いたが、おいらはパルゲさんのものはあまり読んでいない。主催していた雑誌のタイトルも勘違いしていたぐらいで、まあ、正直、グラッツイアーニやシュミットの流れは多少読んでいたのだけれど(もっともシュミットは何を言っているのかわからなかったので、「量子経済学」をやめた後のチェンチーニなどを読んで、「きっとこういうことを言っているのだろう」と思ってただけだけれど)。CTとMMTは逆方向によく似ている。CTもMMTも、政府の赤字支出が企業部門に利潤もたらすことを理解している。しかし、MMTはそれが正常な姿であるとするのに対して、CTはこれを病理的現象だと考えている。この違いは、もちろんCTが、政府のことを企業同様、「誰も自分の債務を自分の債務で返済することはできない」というルールに従わなければならない存在であるという点を強調し、モデルの出発点と終着点においては政府債務も民間債務も残高がゼロにならなければならないとしているからだ。しかしMMTではそのような出発点も終着点も想定しておらず、租税制度によって適切に国内居住者に政府が債務を負わせることができ続けさえすれば、政府債務は準備通貨の有利子の代替物として流通し続けることを強調する。つまり残高をゼロにする必要はない。CTでは残高をゼロにする必要性を認めるから、政府赤字によるインフレは、次の債務返済のための黒字によって失業発生へと追い込まれる。MMTも好景気をそれに続く失業発生期間とあわせて一つのものとして考えるアプローチを採用する点ではCTと同じだが、残高をゼロにする必要性はない(単にゼロにする必要はない、ということに限って言えば民間だって同様だが、政府債務はどこまでも発散しうる)としたことで、政府債務は民間部門に持続的な純資産をもたらすことになる。こうしたCTとMMTの違いは、単に「閉じたモデル」で物事を考えるか、歴史的事実に沿って考えるか、ということではなく、そもそも中央銀行が中央銀行として機能している(し得る)のはなぜか、という観点の違いにあるように思う。CTでは最初から世界が中央銀行を中心とする金融部門、製造業を中心とする民間企業部門、労務者を中心とする家計部門、そして海外部門に分かれており、必要に応じて中央政府部門が付け加えられるがその金融的性格は民間部門と変わらない。こうした規定はモデルの外から単に「定義」されることによってモデルの中に挿入される。なぜ民間銀行が中央銀行の準備通貨を唯一の最終的決済手段として用いるのか、用い続けようとするのか、これは単にそのように歴史的に決まってしまったからそうであるとされ、なぜこのモデルの中で各経済主体がそれを受け入れ、それに従い続けるのかについては不問とされる。しかしながらある一時点で歴史的に決まった社会的アレンジメントは、それを国内の主要な経済主体が多かれ少なかれ積極的に受け入れようとする契機がない限り、すぐに形骸化し、持続不可能になってしまうだろう。こうした制度が、単に法律によってそう定められているからだ、というのでは明らかに不足なのである。一時的・歴史的偶然によって決まったアレンジメントが持続し、再生産されるシステムを明らかにすることが必要だ。現に存在している制度機関間の関係を検討するとき、ただそれが漫然と結びついていることを仮定するべきではない。法律は非常に重要な意味を持っているけれど、しかし法律でこう定めたからこうなります、政府がこう言ったから民間はそれに従います、ということにはならない。法律は強力な手段であり、民間経済主体を容易に破綻に追い込むことが可能だけれど、しかし民間もまたそれに対して反抗する手段をいくらでも持ち合わせている。そして政府内部も民間内部も、決して一枚岩ではなく、定められた法律に対して様々な形で関与し、様々な利害関係を形成することになる。法律の経済金融上の機能を考えるとき、こうした力関係の中でそれが果たしている役割を考えることなく、法律の条文や目的だけを額面通り受け止めていては適切な分析や提言にはならないだろう。そしてそうした再生産の条件が明らかにされてこそ、問題となっている機関(例えば連銀)にできることが明確になる。
したがって法律を持ち出すときには、その法律が実際に経済金融上、どのような役割を果たしており(あるいは果たせないでおり)、どのような機能を担っているか、そしてその機能が果たせるためにはどのような条件が必要になっているのかを再検討することが必要だ。中央銀行が中央銀行として機能できるには、単に法律で「連銀をアメリカの中央銀行(12の名義上の中央銀行の決済銀行として唯一の中央銀行)と定める」と定めれば済む話なのではなく、それが中央銀行として機能できるような制度を整えなければならない。そしてそれによって、実際に中央銀行にできることできないことがはっきりする。標準的教科書では、準備通貨は連銀が発行しているのだから連銀の意思で増減させることができる(そして準備通貨がマネーストックの素になっているのだから、マネーストック自体連銀の意思で自由に増減できる。マネーストックが増えるかどうかは民間の投資意欲に依存するが、金利が低下することで投資が自動的に増加する)。しかしMMTでは「準備通貨の発行者が連銀」ということを問題にするよりは、なぜ連銀の準備通貨が最終的な決済手段として使われているのかを問題にする。そこからおのずと連銀にできることとできないこととがはっきりする。一部の批判者の言うこととは反対に、MMTは政府や連銀が権力によって自由に何事かを行える、と主張しているのではない。むしろ標準的経済学の方が暗黙の裡に中央銀行の万能の権力をモデルに埋め込んでいる。表キュン的経済学における連銀の権力(というより魔力)は、すべての経済主体に中央銀行の発行する準備通貨を貨幣として受け入れさせることができるが、しかし政府の赤字国債を引き受けた瞬間にその魔力は解けてしまい、我に返った人々によってハイパーインフレが引き起こされることになっている。MMTはむしろこの点ではある意味グラムシ的である。政府や連銀が圧倒的な力を持っているということ自体はその通りだが、それは自分たちの思い道理に経済主体を従わせることではない。確かに徴税権力は圧倒的だが、しかし民間もまた、こうした権力に対して反撃する能力を持っている。さらに連銀の準備通貨を最終的な決済手段として受け入れさせる能力に至っては、そんな魔法のような能力はないと言わざるを得ない。できることと言ったら、連銀の準備通貨を最終的な決済手段として受け入れることを民間銀行が肯是せざるを得ない状況を作り出すことだけだろう。政府が唯一の口座を連銀に開くことで、連銀の準備通貨は連銀の財務ポジションにかかわらず民間銀行が準備通貨として利用せざるを得なくなる、という意味で決して市場から拒否されることのない存在だ。実際、連銀の財務諸表とは矛盾した概念である。なぜなら、連銀の債務負債のポジションそれ自体が連銀の負債を単位として計測されているのだから。連銀が「この金融資産をこの価格でいくらでも買う」と言ってしまえば、その証券の価格、すなわちその証券と連銀の負債との交換比率、はそこで固定されてしまい、上にしか動きようがなくなってしまう。いくら財務諸表を見ても連銀の行動が適切かどうかはもとより、そのポジションの意味も分からない。

話はちょっとずれてしまうが、興味深いのは、金貨銀貨が流通していた時代、「シニョリッジ」はむしろ政府(国王)の財政にとって意味がなかった、という指摘である。貨幣鍛造によって鋳貨が製造されるとき、その素材の市場価格と額面価格とが乖離する(15世紀までヨーロッパのコインには額面を記す数字は刻印されていなかったということだが、とりあえずここでは額面という言葉を使う)。この差額が王室にとっての収入(「シニョリッジ」)になったわけだが、ところがこうして発行された鋳貨は流通している間、摩耗したりクリッピング(わざと鋳貨の周囲を削ぎ取って自分のものにしてしまう不正行為)によって小さくなってしまう。額面で流通することがわかっているのだから、金のような高価な材質で作られたコインはクリッピングが絶えなかったことだろう。最初に金貨を手にした人たちは、ばれない限りクリッピングにいそしんでいたに違いない、とおいらなんぞは思ってしまう。当然王室はこうした鋳貨で徴税していたわけだが、その徴税が額面単位を基準に行われている限り、王室に戻ってくる鋳貨は摩耗やクリッピングにさらされた後の小さな欠片に過ぎない。勿論あんまりひどい場合には受け取りを拒否することもあったろう。重量によって足切りがおこなわれることもあったという。シニョリッジによって得られる収入よりは、徴税によって得られる金貨の摩耗・クリッピングによる損失の方が大きかったであろうことは容易に想像がつく。鋳貨の額面価値を鋳貨の素材の市場価値と一致させるべきだ、という主張はアリストテレスにまでさかのぼれるそうだが、土台不可能な話である。つまりMMTによるなら、「商品貨幣」などこの世に存在したことはなかったことになる。貨幣単位は常に商品とからは独立した次元に属しているのであって、鋳貨の素材である金属や、あるいは穀物などとは全く別のものだ、というわけだ。国王はこの貨幣単位についてはかなり好き勝手な力を行使することができたようだが(布告によって一晩でコインの価値を変更してしまう、など)、商品の価格や鋳貨の素材については、むしろ利用する者の方に分がある。ヨーロッパの歴史上、クリッピングによる不正を摘発・防止する手立ては繰り返し現れるが、ほとんど効果はなかったとされている。中世の国王や教会、諸侯、商人の力関係は時代によって変わっていたとはいえ、押しなべて現代の先進資本制国家と呼ばれる地域に比べればかなり脆弱だったことだろう。金貨銀貨の発行はシニョリッジによって国家の財政を潤すよりは、むしろ鋳貨回収時に明らかになる損失の方が大きく、国家の財政を圧迫していた可能性を考えなければならない。だからこそ政府は鋳貨の減価や混ぜ物による貶貨を強いられていたし、そして絶えず生じるインフレーション(政府貨幣単位ではかった物価水準の上昇)の一因になっていた、と考えられる。表向きの法的な制度にごまかされてはいけない。

現在の資本制国家経済の下では、政府が中央銀行に唯一の口座を開くことで、すべての銀行がその準備通貨による最終決済を現実的な方法として受け入れている。そうすることで中央銀行の準備通貨は国内で販売されているあらゆる商品の価格を表示する単位となり、そしてその準備通貨は国内で販売されているあらゆる商品を購入することができる。そして何より、こうして中央銀行が債務超過になってもその準備通貨は使われ続けるだろうという事実によって、いざ金融危機に際しては「最後の貸し手」として行動することができる。それどころか民間で大量に発生している不良債権を購入することで資産市場を下支えすることまで可能となっている。もし中央銀行が、単なる一準備銀行に過ぎず、単に法律によって「中央銀行」とされており民間銀行は普段は法律に従って最終的な決済手段を連銀の準備通貨に依存しているだけだとしたら、連銀が債務超過になったらその準備通貨も信用を失い決済手段として使われなくなってしまうだろうし、そうであれば連銀はいかなる状態であっても資産市場の崩壊を食い止めるために価格急落に襲われた民間の資産を大量に購入することなどできないだろう。そんなことをすれば次は連銀の資産内容が悪化し、その結果として連銀が債務超過になり連銀の準備通貨も不良資産となってしまう。そうならないのは、結局のところ連銀の準備通貨はそのような場合であってもどこかに通常通り額面通りに引き受けてくれる大口の、どの市場参加者にとっても経常的な支払いがある、主体がいる――連邦政府――からであり、そして連銀の資産内容自体が連銀自身の負債によって測られているからに他ならないだろう。これが法律の規定とは別に、法律による自縄自縛的制約を別として、連銀にできることである。
逆に連銀はマネーストックどころか、準備通貨すら好きなようにコントロールすることはできない。法律により連銀が準備通貨の供給者だ、と定められていればそのような魔力を手に入れることができるわけではない。勿論、インターバンク市場金利をゼロにする、あるいは準備そのものに金利を支払うことにすれば、準備通貨を任意の水準に増やすことが可能になるだろう。ただしその場合、もはや国債と準備を交換することには民間には何の意味もない。形の上で準備残高が増えるだけのことであって、これはむしろ現在の国債の性格(インターバンク市場におけるドレーン)を明らかにする意味しかないだろう。他に所要準備率を「引き上げる」ということによっても、夜間・休日の準備残高を増やすことは可能だろう。あるいは日中物の当座貸越枠やクレジットライン枠、手形の再割引枠を縮小することでも銀行は普段から予備的な準備を保有するようになるかもしれない。これらも形の上で準備を増やすことになるものの、実際には所要準備率を引き上げることは、日中の(つまり営業時間中の)準備の必要性とは何の関係もないし、後者のやり方は、実際に使える準備を増やせるわけではない。単にコミットメントとして「潜在的に存在」している準備残高を「実際に存在する」準備残高に置き換えるだけの、全く形式的(利用されていない当座貸越枠を準備残高に置き換えるだけ)な話に過ぎない。
要するに、法律でどのように定められていようと、できないことはできない。できることは、法律で禁止されていようとも、その法律の条文を修正するだけで、あるいは小さな穴をあけるだけでできてしまい、そしてそうした変更によって事実上、何の経済金融上の事態の変化も起らない。

しばしば海外でも、MMTに対する論難として、「法律でこのように定められている」ということが指摘される。しかしながらMMTの立場からするなら、問題は、その法律が実際にどのような形で金融経済上に影響を与えているのか、ということであり、そしてその文言を変えることが経済金融の実態にどのような影響を与えるのか、ということである。MMTが常に「経済・金融」と「法律的正統性、自縄自縛的制約」、そして「実物資源」の問題を区別し、そしてそれぞれの関係にこだわっているのには、そうした事情があるようである。

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