去年、岩橋さんたちが参加している「成年後見制度」の学習会に何度か参加しました。
そこで、もっとも印象に残ったのは、池原毅和さんのお話でした。
障害者の生活と人権を守るはずの「成年後見制度」が当事者の意思や自己決定を疎外している現実を前に、そもそも障害者を「自己決定できない者」「本人の意思のない者」という規定から始まっていることがおかしいのだということを、とても分かりやすく説明されていました。
◇
《成年後見制度と保護者制度》
Ⅰ 支援を受けた自己決定と自己決定の能力
人の自己決定能力を考える場合も、医学的な観点から機能障害のみに注目するのではなく、自己決定を支えている社会的・環境的要素に目を向ける必要がある。
人が日々行っている個人の意思決定は、
さまざまな社会的・環境的要素に支えられ影響されており、
完全に孤立し他者や社会との関係をまったく持たない状況で行われる自己決定は通常は存在しない。
人の意思決定の基盤には、教育や社会経験によって蓄積された知識や経験知があり、
個別の意思決定の局面においてもさまざまな媒体から得られる情報や、
その人ととりまくさまざまな人々との間で織りなされる情報交換や、
心理面に影響を与える励ましや批判など、
さまざまコミュニケーションが存在する。
教育や社会経験は、
教育制度や社会制度が、障害のある人をどれだけ排除してきたかによって規定されており、まさに社会的要因によって構成されるものである。
また、他者とおりなすさまざまなコミュニケーションは、
本人がどのような社会関係を持っているかによっており、
それも障害のある人の社会参加の場がどのように保障されているのかによって規定されている。
自己決定能力は、教育や社会経験などの背景要因と、
当該判断の際に提供される情報の量や質、わかりやすさ、
その理解を助ける人的装置とコミュニケーションの技術によって大きく変動する。
脳内の神経伝達系に器質的あるいは機能的障害が存在するとしても、
社会的な条件が相互に作用しながら現実の自己決定のあり方を規定している。
精神障害のある人の権利擁護制度を構築する場合、
その大前提として重要なことは、
通常の人が得ている自己決定を支える社会的条件を、精神障害のある人にも保障することである。
精神障害を持つことによって教育や就職、結婚、地域社会への参加などの機会が与えられなくなる場合が少なくない。
精神障害のある人が同年齢の成人と同じ質と量の知識や社会経験を与えられ、同じ質と量の人間関係を持っていることは少なく、彼らは不十分な社会経験や極めて限られた人間関係(例えば家族と医療関係者のみ)の中で自己決定をしなければならない状況に追いやられている。
障害者権利条約は障害のある人の法的能力の平等な保障を定めた(12条2)うえで、
自己決定支援策を利用可能なものとし(同条3)、
その濫用を防止するセイフガードを定めている(同条4)。
障害者権利条約は、障害のある人の自己決定能力について、医学モデルから統合モデルあるいは、より社会モデル力点を置いたパラダイムシフトを前提にして、自己決定の支援こそが重要であると考えている。
同条約は、自己決定を行う本人の社会的条件の不十分さの程度などに対応して漸増する支援のあり方を考え、適正な支援が最大化されば成年後見の必要性は最小化されるものと考えられている。
『精神障害法』 池原毅和 三省堂
◇
著書からの引用だと少し硬いのですが、その場で聞いているときには、私が出会ってきた障害のある子や、家庭を失った子どもたちの顔が次々に浮かびました。
子どもにとって一番大切な家族や友だち・仲間の存在の意味を、家族や普通学級を失ったことのない専門家は軽く考えすぎているのだと私には思えます。
「障害は不便ではあるけれど、不幸ではない」という言葉をいくどか聞いたことがあります。
「見えないこと、そのことは不便でも不幸でもない。生まれたときからこれしか知らないのだから…」という言葉もいくどか耳にしました。
そうした言葉によって伝えているのは、身体の機能の一部を失わせていることが「障害」の問題ではなく、「障害」があることで奪われる無数の「安心の場や穏やかな関係」だということだったのだと思います。
それは障害のある子どもたちと長く付き合った後に、虐待などで家族を失った子どもたちとつき合うようになって、確かに分かるようになったことでした。
虐待された子や家庭をなくした子どもたちは、いわゆる「障害」はありませんでした。能力でいえば、就学時検診で分けられることもなく、点数が取れないからと定時制高校でも不合格にされる、ということはありません。
でも、生きていく苦労、生きにくさを抱えて苦しんでいる姿を、私は同じ子どもの苦しみとして感じてきました。
本来、安心できるはずの子どもの時間、親に守られて安心して眠れる時間、話を聞いてもらい、抱きしめてもらう時間を、奪われてきたこと。
そうした家庭がなかったために、安心できる学校の生活や友だちと関係を体験できないこと。
障害があるために、安心できる学校の生活や友だちと関係を体験できないことは、同じ生き難さを子どもに植え付けます。
それは、自分が世界から疎外されている感じ、でもあります。
親から虐待され、疎外された子どもは、文字通り、世界から疎外された子どもとして生きるしかありません。
地域の普通学級から疎外された子どももまた、それがいじめによるものであれ、先生の体罰によるものであれ、障害を理由に分けられることであれ、ひとりの子どもにとって、世界の子どもが当たり前にいる場から、自分ひとりが疎外されたと感じることになります。
家庭は子どもにとって、安心していることができ、飢えることなく、凍えることなく眠れる場所である必要があります。
子どもが男の子であれ女の子であれ性同一性障害であれ、子どもであることに違いはありません。
子どもにとって、安全で安心な家庭を体験し通過することはとても大切なことです。
どんな障害があれ、「専門的な家庭」など勧められるいわれはありません。
そして、地域の学校もまた子どもにとって、安心していることができ、叩かれることなく、疎外されることなく、仲間のなかで生活できる場所である必要があります。
性別や障害や国籍で、それが必要でないとか、大切でない子どもはいません。
どんな障害があれ、基本の世界と「専門的な教育」を引き換えにできるはずがありません。
子どもがただ子どもであることを、大事にされ、見守られ、待ってもらい、信頼される体験。
そのとき、その状況で、その子どもが必要とする手を差し伸べてくれる大人の存在。
その必要性と大切さは、障害があってもなくても、子どもにとって同じものに違いありません。
◇
さて、…前半に引用した文章と、後半の私のひとり言と、ちゃんとつながっているかな?
「障害」児や「被虐待」児といい、その問題を抱えた個人に焦点を当てるのではなく、
障害や虐待故に、その子が奪われた「子ども体験=子どもとしての安心」を、いかに保障するか、いかに補い支えるか、と考えることが大切なのだと思います。
◇
PS: 今朝になって、読み返してみて、「いかに補い」という言葉に引っかかりました。
頭の中で小夜さんの声が聞こえたので、理由はすぐに分かりました。
『大人がどんなにがんばっても、友だちの代わりはできません』
そう、誰がどんなにがんばっても、親の代わりもできないように、幼なじみの「代わり」などできるはずもなく、「子ども時代の」代わりなど取り返すことはできません。
だからこそ、それらは、かけがえなく大切なものなのです。
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