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■撮影場所/北名古屋市 / 2007.10.21 18:22:52
■NIKON D80 / SIGMA DC 18-50mm EX MACRO HSM / F2.8 1/3秒 ISO800 / シャッタースピード優先AE 補正+2 分割測光
秋の深まりとともに、
夜が、日一日と長くなってきました。
もちろん毎年の、同じ繰り返し。
ただ――。
昔、日暮れた町の灯し火は、もっと暖かでした。
家々から漏れる明かりも、
街路灯も、
車のベッドライトも、
もっと暖かでした。
それがいま、
家々の白熱電球は蛍光灯に変わり、
街路灯は水銀灯に変わり、
車のヘッドライトもハロゲンランプに変わって、
すべての明かりが、白く――いえ、青白くさえなりました。
いま、夜の町を包むのは
温もりを感じる暖色系の「灯」ではなく、
心の中を隙間風が吹き抜けるような寒色系の「光」――。
照度や輝度が増し、明るくはなりました。
便利にも、なったのかも知れません。
けれども、
単なる偶然なのでしょうか、
同じ頃から「家族の崩壊」に根ざすさまざまな問題が日本の社会全体を覆い始め、
寒々とした事件を、毎日のように見聞きするようになったのは。
町の明かりが暖かさを失ったことによって、
人の心もまた、
知らず知らずに暖かさを失ってきたような気がして、なりません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hikari_blue.gif)
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uwanosora443さんが仰るまで、考えたこともありませんでしたが、そうなのかもしれませんね。
それならば、今、電球型蛍光灯の“電球色”が再び人気を博してきたということを、人々が再び電球の“温かさ”を求めるようになったという風にも捉えられますよね。
殺伐としたニュースの多い昨今ですが、人間はやっぱり“ひと”だったのだと、少し未来に希望を見出したりしているのです。
ただ、「似て非なる物」は、あくまで「非なる物」だという現実があります。
時計の針を逆に戻そうなどという暴論を吐くつもりはありませんが、「本当の豊かさとは、どういうことなのか」という原点を、少なくとももう一度じっくり考えてみる必要はあるのではないかと、昔人間は思います。
uwanosora443さんの写真から、フウテンの寅さんの
一場面が浮かんできました。
いつものおいちゃんの家の茶の間で 卓袱台を囲みなが らの寅の瞑想談話です。旅の途中、ふと垣根越しに見た
家族が裸電球の下で 幸せそうに夕食を摂っている こ れが普通の家庭の団欒なんだなあ と懐かしがるシーン です。説明が下手で申し訳ないですが分かって頂けます か?でも写真の家には 塀が有って外からは見えない
し 丸い卓袱台も無くなりました。
我が家も椅子とテーブルで 老妻との無言の夕食です。
それは、
大自然に触れたとき。
貧しい国を訪れたとき。
大自然に触れることが、当たり前のようで当たり前でなくなってきていて、贅沢に感じる・・・。
貧しい国を訪れたときには、子供たちの心がとっても豊かに感じた。
uwanosora443さんがおっしゃる
「町の明かりが暖かさを失ったことによって、
人の心もまた、
知らず知らずに暖かさを失ってきたような気がして・・」
すっごく実感として、胸に響きました。
本当の豊かさを見失わないように、生きていきたいなって思います
日本の家庭から裸電球がなくなり、丸いちゃぶ台が姿を消してから、家族の、心の離散が始まったように思います。
それが、文明・文化が発展してきたことによる「結果」であってよいのだろうかと、思うことしばしばです。
外から自分の国を見直し、自分の毎日の生活を見直す――とても大事なことだと思いますよ。
ご自身が得た感動を、どうか大事になさってくださいね。
でも、それにはちゃんと理由があるようですよ。
理系が不得意なので、名前は忘れましたが、
あの『青白い光』の街灯のおかげで、防犯効果が
実証されてるそうです。
そのため、広島ではだんだんと街灯を変更していってるそうです。
微妙な世の中ですね。。。