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映画「撤退」

2007 独・仏・伊・イスラエル
上映時間 115分
監督 アモス・ギタイ(1950~)
出演 ジュリエット・ビノシュ(1964~)ヒアム・アッバス(1960~)リロン・ルヴォ
原題 Disengagement レンタルDVDにて鑑賞

3年前に来日し、東京ではおなじみの監督らしいが、私は初めてだ。
第4次中東戦争(1973)にも従軍したという監督の「国境3部作」の最終作。このきっぱりした題名は2005年の、ユダヤ人入植者の「ガザ撤退」から。(厳密にはdisengagementと「撤退」は同じ意味じゃないみたいだ)

イスラエルという国がまわりを敵に囲まれている立地のせいか、何本か見ただけだが、この国の映画からはピリピリ、イライラした空気が漂ってくる印象がある。この映画も、作品のために国を追われたこともあるという監督自身の内面を反映するかのように、冒頭から神経を逆なでされるシーンが続出。あまりのことにあきれて、逆にもっと見たくなるが、或いはそれが狙いなのかも。
ここからネタバレ全開です
まず主人公が列車(オランダらしい)の通路で煙草を吸う。傍らの目つきの悪い肌の荒れた女性(ヒアム・アッバス)も吸い、彼女はその上、車掌の質問にとげとげしく答える。まるで因縁をつけているかのようだ。そのあとでこの初対面の2人がセックスを暗示するキスを始める。車掌に絡むのはさておき、煙草を吸い、濃厚なキスをするなんて、1つだけでも良くないが、2つそろえば大罪だ。どうしてわざわざトンガッタ思春期の子供のようなことを?

主人公のウリ(リロン・ルヴォ)はイスラエルの軍人だが、これから南仏(アヴィニヨン)に住む養父の葬式に出かけるところ。途中いろいろな場所を経過するが、どこだか一切の説明なしという独善と不親切ぶり。葬式で義理の姉アンナ(ジュリエット・ビノシュ)に会うが、これが自由奔放といえば聞こえが良いが、困った女で、会うなり義弟の胸元に手を入れるわ、裸をちらちら見せて挑発するわ、遺言状を手書きで偽造しようとするわ、(さすがにジャンヌ・モローの弁護士に一目で見抜かれてしまうが)自分でも「学習能力がないのよね」というが、こういう人物をわざわざ出すのはどうしてだろう。これらは女性らしさの一部なのか?政治家から映画人にまで、大もてのジュリエット・ビノシュだが彼女に合わせての人物設定のようだ。残念ながら私から見るとすこしオツムの弱い性格の破綻した女性にしか見えない。

やがて亡父の遺産として貰い受けた車をイスラエルに送るウリ。20年前に手放した娘にガザに会いに行くというアンナ。どちらも、この修羅場になぜわざわざ火中の栗をひろうような真似をするのかな?もっと後ではできないのだろうか?
というわけでアンナはイスラエルにつくも、しょっぱなからウリに置き去りにされ、親切な人の世話で、ようやく娘に巡り合うが、その母娘対面シーンが不自然。ふつう20年間お互いに会っていないのなら、他人も一緒、抱きついたりはしないと思うが。

アモス・ギタイにとっては女性は聖女=母親か娼婦かで、それ以外はないかのよう。はじめ娼婦として登場したアンナは、イスラエルにつくや否や母親つまり聖女に変身する。生まれて20年間育った土地を追われる娘(これは純粋で優しく愛らしい感じで、心も外形の全然母親に似ていない)に感情移入することが観客には求められるのだろうが、あまり同情する気にならない。ユダヤ教の礼拝風景を出したり、軍隊とラビ、信者のもみあいを見せたりするが、今一つ感動にかける。アンナはアラビア語もヘブライ語も区別がつかない。フェンスの向こうからアラビア語の詩で呼び掛けられるのを呆然と見ている。娘に「その人たちパレスチナ人よ!」と袖を引っ張られる。

撤退というテーマに事寄せて、個人の心象風景を描いただけの映画だ。もしかすると原題の意味は組織からの脱退とか、自由とかいうことかも……。

登場人物の視野は狭い。自分の身辺を見ているだけ。政治的な意味とか立場とかには無関心だ。だからウリは自動車を壊されて、軍隊や入植者への怒りが爆発するのだ。そんなの、状況をわきまえない行動の結果で、自業自得でしょうが。

ガザといえば08-09年のイスラエル軍の攻撃で数百人のパレスチナの子供が死んだその、遺族の証言を記録した映画をこの前見たところなので、つい点が辛くなるのかもしれない。
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