映画の感想など・・・基本的にネタばれです。
しづのをだまき
【本】今日の芸術
2008年07月20日 / 本
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/c1/87d9b2100ccb12a33d2e1588369f99a1.jpg)
著者 岡本太郎 発行者 光文社 1999年(初出1954年)
芸術には無縁な私だが、岡本太郎という人には、いつも惹きつけられた。
彼の芸術作品に、というわけではなく、彼という人間自体に・・・
TVで語ることばに熱があり、衝撃的で忘れられない。
「今日の芸術はうまくあってはならない、キレイであってはならない、心地よくあってはならない。」
さらに「芸術はいやったらしい」はこの本で初めて知った。ナールホド、(この先5ー6行は私の独断と偏見によるものなので、真に受けないでほしい)最近の映画で退屈なもの、見るも不快なものがよくあるが、あれらは「芸術」だったわけか。何故あんなものが珍重されるのか、私がいくら悪口を言っても、皆「そうですよね」と相槌を打つだけで、あとは平気な顔をしているのかと軽く不審を覚えるこの数年だったが、太郎氏の芸術の定義でやっとわかった。見るのが苦痛なくらいでないと、芸術とは言えないのだとすると、お金を払って苦しみに行くのを覚悟しなくてはならず、芸術鑑賞も楽ではない。
もしかして、あなた岡本太郎をご存じない?大阪万博公園の「太陽の塔」(↑)の作者であり、
20年以上前、TV番組やCMに良く出ていた、目玉をギョロギョロさせた猪首短身の人で、北京五輪レスリング日本代表の浜口京子の父親に面影が似ている。(失礼!)
最近、彼の著書や伝記などを読み散らしているので、序だから思い出すままに書くと、
岡本太郎は小学1年生の時からたった一人で学校と戦って来たという。黒柳徹子は一年生で公立から私立に転校したそうだが、岡本太郎はもっとすごくて、一年生で3回転校した。
12歳ぐらいで両親と対等に議論して、彼らより論理性で勝るので、負かしていた。母かの子は、中学生になるとすっかり太郎に頼りきるようになった。そのくせ、彼が病気で寝ていると、4日も5日も病室を訪れない。「だって、寝ている太郎なんて、汚くていやだから」と言ったとか。「お袋らしいや」と言って、恨むことなく思い出す太郎も、大物だ。
18歳から30歳くらいまで戦前のパリに留学したが、その間、彼が日本の両親によこした手紙の素晴しさ。母親に向かって、「幼児性を捨てろ」「感情に溺れるな」などと、忠告しているくだりには驚嘆する他ない。
30歳になって徴兵されて入った軍隊でも、たった一人で戦った。鉄拳から逃げないという形で・・・
太郎が、私のような芸術と無縁の大衆にじかに話しかけるのは、この幼い時からの孤立と、生来の論理的思考と、フランス留学で培った、言葉で説明する能力とがあいまってだろうか。
養女・岡本敏子の伝記「岡本太郎」は、民族学でいう「贈与論」の体現者が太郎だと言う。太郎は、出し惜しみせずに、見返りを求めずに、自分のすべてを与える人だった。彼の生きかたそのものが、芸術、それも「爆発だ!」の部類の芸術だったのだろう。
岡本太郎 1911-1996
芸術には無縁な私だが、岡本太郎という人には、いつも惹きつけられた。
彼の芸術作品に、というわけではなく、彼という人間自体に・・・
TVで語ることばに熱があり、衝撃的で忘れられない。
「今日の芸術はうまくあってはならない、キレイであってはならない、心地よくあってはならない。」
さらに「芸術はいやったらしい」はこの本で初めて知った。ナールホド、(この先5ー6行は私の独断と偏見によるものなので、真に受けないでほしい)最近の映画で退屈なもの、見るも不快なものがよくあるが、あれらは「芸術」だったわけか。何故あんなものが珍重されるのか、私がいくら悪口を言っても、皆「そうですよね」と相槌を打つだけで、あとは平気な顔をしているのかと軽く不審を覚えるこの数年だったが、太郎氏の芸術の定義でやっとわかった。見るのが苦痛なくらいでないと、芸術とは言えないのだとすると、お金を払って苦しみに行くのを覚悟しなくてはならず、芸術鑑賞も楽ではない。
もしかして、あなた岡本太郎をご存じない?大阪万博公園の「太陽の塔」(↑)の作者であり、
20年以上前、TV番組やCMに良く出ていた、目玉をギョロギョロさせた猪首短身の人で、北京五輪レスリング日本代表の浜口京子の父親に面影が似ている。(失礼!)
最近、彼の著書や伝記などを読み散らしているので、序だから思い出すままに書くと、
岡本太郎は小学1年生の時からたった一人で学校と戦って来たという。黒柳徹子は一年生で公立から私立に転校したそうだが、岡本太郎はもっとすごくて、一年生で3回転校した。
12歳ぐらいで両親と対等に議論して、彼らより論理性で勝るので、負かしていた。母かの子は、中学生になるとすっかり太郎に頼りきるようになった。そのくせ、彼が病気で寝ていると、4日も5日も病室を訪れない。「だって、寝ている太郎なんて、汚くていやだから」と言ったとか。「お袋らしいや」と言って、恨むことなく思い出す太郎も、大物だ。
18歳から30歳くらいまで戦前のパリに留学したが、その間、彼が日本の両親によこした手紙の素晴しさ。母親に向かって、「幼児性を捨てろ」「感情に溺れるな」などと、忠告しているくだりには驚嘆する他ない。
30歳になって徴兵されて入った軍隊でも、たった一人で戦った。鉄拳から逃げないという形で・・・
太郎が、私のような芸術と無縁の大衆にじかに話しかけるのは、この幼い時からの孤立と、生来の論理的思考と、フランス留学で培った、言葉で説明する能力とがあいまってだろうか。
養女・岡本敏子の伝記「岡本太郎」は、民族学でいう「贈与論」の体現者が太郎だと言う。太郎は、出し惜しみせずに、見返りを求めずに、自分のすべてを与える人だった。彼の生きかたそのものが、芸術、それも「爆発だ!」の部類の芸術だったのだろう。
岡本太郎 1911-1996
コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )
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いつだったかピカソを痛烈に批判した事がありましたよ。沢山の愚作もあるって・・・^^