Sideway

気のおもむくまま。たこやきの日記的雑記。

語り倒してみる。

2008-02-28 | 日記。
書類いっこ落ちました~。結構真面目に狙ってたとこ。ドンマイ。
ちょっくら履歴書の書き方をプロに教わってくることにします。

まあ、それはただの挨拶なのですが。
(そして一回PCが落ちたので、これを書くのは二度目なのですがw)

(以下クソ長いです。そして、誰かに語るというより、私が自分に言い聞かせてると思って読んでいただければ幸いです)



先日、事故に遭いました。
結局その事故自体はたいしたことは無く、お互いにほぼ無傷だったのですが、以来、さすがにちょっと車が怖い今日この頃です。
青信号で横断歩道を(自転車に乗って)渡ろうとしたら、急いでいた左折車に撥ねられたわけですからね。真面目な話、向こうがあと1~2m押してきてたら、右足は無事ではすまなかったでしょう。
「このままじゃやばい、足持って行かれる」と感じましたから。
なのでさすがに精神的にはショックだったらしく、以来主に移動中、なんでもない瞬間にふと、「あ、もしかしたら私、今死ぬかも」と思うようになりました。
例えば就活のために新幹線での移動中に、「今この新幹線が脱線とか起こしたら死ぬなあ」とか、自転車で道路を横断する時に、「今左折車が突っ込んできたら死ぬなあ」とか。
それ自体はまあ、日常生活に支障をきたすわけでもなく、たいした事ではないのですが、そうするとつい、「じゃあ、私が今死んだらどうなるかなあ?」と想像が進みます。

以前にも触れたと思うのですが、今書きたいと思っている話の冒頭は、こんな風に始まろうと思っています。
「例えば今日、私が死んだとして。
 そのことで一生、傷を負ってくれる人は何人いるんだろう?」
これは実は、結構私の本音でして。今回のように「自分の死」に考えが巡るとつい、思ってしまうことでもあります。
家族はきっと、大事になるので(一人っ子ですので、子孫が途絶えます)それに思い至った時点で「死ねねぇなあ」と思うわけですが、じゃあ、例えば友人、そして、今この文章を読んでくださっているあなた。そういった血縁関係にも家族関係にもない、いわゆる「他人」はどうなんだろう、と。
そりゃあ、ちょっとでも見知った人が死ぬのは結構なショックでして、私も一度経験したのですが、その人のことを見事サッパリ忘れるのは到底不可能です。でも、その事実が私の日常を変えたか? といえば微妙だったりする、そのくらいの距離の方でした。
じゃあ、私の周りに、「それ以上」の距離に居てくれる人はいるか? と考えると、それは分からないのが実際のところです。
「多分、私が今日死んだとしても、そのことは私の周囲(主に友人を指す。恋人は残念ながらいねぇからな)の生活を何一つ変えないだろう」
その結論は、なかなか空しい、哀しいものだったりします。
(この辺で例の「勇者死す。」とか思い出したりして。舛田センセのメッセージとか結構共感できて……やっぱこのゲームやりたいなあ)

別に、「どうせ私なんて……」とか思っているわけではなく、単なる事実としてね。それ以上のつながりを他人と持てていないんだなあ、と実感するわけです。
そしてまた、「もしアタシが今死んだら、誰かアタシのことをその先一生思い出して暗~い人生送ってくれなきゃイヤ」とか言ってるわけでも決してありません。そんな人生、きっと誰だって送りたいとは望まないだろうし、私だっていやだし、私の友人が送るのを見るのもいやです。
じゃあ、一体どういうことなのか。
上記の表現を平たく押し潰して言い換えれば、
「私は私の周囲の人たちに、本当に必要とされているんだろうか?」
になります。まあ、ちょっとニュアンス変わる気もしますが、要はそういうこと。「居ても居なくてもいい存在」でありたくない、「必要とされたい」と、そういう話なわけです。
でも、ここまで押し潰して言ってしまうととても聞き慣れた、悪い表現をすればとてもチープな言葉になって、私の中で上滑りしてしまいます。それよりも実感として感じるのは、上記の「もし私が今死んだら……」です。

しかし、この思い、本当に必要なものなのか? そう考えたことはありますか?
「別に誰に必要とされなくたって構わない。私は一人で生きていける」
「人は一人では生きていけない、なんて偽善の嘘っぱちだ」
そう考える人もいると思います。偽善とか何とかとは思わなくても、まあ正直私も、この「人は一人では生きていけない」という言葉を、何不自由なく暮らしている間に聞けば「大げさだなあ」と感じてしまいます。誰かが居なければ、誰かに依存しなければ生きていけないなんて、その方が人生として虚しいんじゃない? と。

けど、この「他人に必要とされたい」「他人が必要である」ということは、実は人間の精神の真実でもなければ、魂の孤独でもないんじゃないか、と思うようになりました。そんな崇高なご大層なものではなく、もっと即物的で本能的な「事実」なのではないかと。

たとえば、です。
自分はアパートに一人暮らしで、家族とは離れていたとします。
そんな中で、病気に罹ってしまったなんて時。
風邪くらいなら可愛いものですが、ノロとかSARSだと真面目に死に掛けることはそう夢物語ではありません。
大風邪は自分も経験しましたが、熱が出ると動けないのに、誰にもご飯を運んでもらえない、それだけで結構な生存の危機を感じるものです。……わりと本能的に。
後輩の話になってくると(どうも彼女はノロに罹ったらしいのですが)、夜中に高熱を出して、ほぼ意識がなくなったそうで。その場に彼女の彼氏さんがいなけりゃ彼女は翌朝冷たくなってたんじゃないか、という危険すら覚える事態になった模様。
そんな時、頼れるのは近くに居る他人だけだったとしたら。その「他人」が、自分のことを必要としてくれているか否かは非常に重要なこととなります。
だって、「どうでもいい」と思われていたら助けてもらえません。
自分がその人にとって役に立つ、出来ることなら代わりの効かない相手になれていれば、きっとその人は何が何でも自分のことを助けてくれます。何故なら、自分が居ないことでその人が困るから。

つまり「他人に必要とされる努力をする」事は、要するに自分がいざ誰かに迷惑をかける(リスクを背負わせる)ことになった時に、相手にとって自分が、そのリスクに見合うほど助ける価値のある人物であるための努力をすることなのだと思うのです。
こう言ってしまえば身も蓋も無くなってしまうかもしれません。結局互いに、自己を最優先に動き、他人との「つながり」ってのはその中で戦略的に生まれる関係ってことになりますから。
実に本能的で、即物的で、戦略的で身勝手。「愛」とか「慈悲」とかなんてナンノコト状態。でも、そこが結局出発点だろうと。そしてそれは、嘆くべき事でも悲しむべきことでもない、タダの事実だろう、そう思います。
だって人間は動物ですから。哺乳類ヒト科ヒト属ヒトというサルの親戚です。サルたちと一緒で、社会性生活を営む雑食性の哺乳類です。
「人は一人では生きていけない」
なんてのは、別に「人間の魂は常に欠けていて、それゆえ常に孤独を感じる……だから人は人と寄り添い会い、暖めあってそのことを忘れるしかないんだ……」などという文学的なことではなくて、「そーいう種の動物だから」なんだろうと思います。そこを支配してるのは魂ではなくて進化の過程で得てきた生活・生殖形態という「事実」あるいは「カタチ」だと。(そして生物学の面白さは一つには、そういう風に「ヒト」について客観視できる視点を提供してくれることだと思います)


じゃあそう考えた時に、本当に「他人に必要とされる」というのはどういうことなのか。(「他人を必要とする」事の事実は上に述べたとおりです)
繰り返している通り、魂云々、精神云々、愛云々ってな形の無い、あやふやなものじゃないのではないか、と思うのです。
つまり、「事実困るんですけど」と言われること。そのためには、自分の周囲にある社会集団の中に身を投じて、その中で何らかの役割を担う必要が出てきます。
「組織の枠に嵌って部品になったって、どうせ自分の代わりなんていくらでも居る。そうじゃなくて、本当の自分を必要としてくれる人を……」
なんて言わず、既にそこにある社会集団の中に突っ込んで、その中に自分の立ち位置を確立すること。それが一番の早道で、それを表現していわゆる「みんなに認められる」というのだと思います。
「居場所なんていうのは与えられるものじゃない、無理やりねじ込んででも確保して、周囲に認めさせるものだ」
そういう意識でぶつかってこそナンボ、という事態も結構あるのではないかと。
組織つったって周りも別に鉄筋で出来てるわけじゃない、相手も柔らか素材の人間ですから。(水分が60%くらい占めてます)
そして「他ならぬ『自分』が必要である」と言わしめるためには自分の個性という名の、まあ要するに自分の特性に当てはまる部分に、自分の形で嵌る必要があるのだと思います。
そうすれば、自分が抜けると他の誰を嵌めようとしてもそのままじゃはみ出部分なり隙間なり出来てしまって周囲が困るわけですから。そしたら「コイツが居る方がありがたい」と助けてくれるでしょう。

しかし、そういう状況というのは、人間が一定箇所(組織)にみっしり詰まってないと起こりません。互いが密着していない、密着していなくても生きていける状況下では、互いの間の隙間が広いので、「認めてもらう部分」も「繋がる」部分も少なく、弱く、緩いものになってしまう。
昔、まだまだ生存が(生活といわずあえて生存が)厳しい頃には、みんなでみっしり詰まってないと生きていけませんでした。人間一人の思い通りになる事はあまりに少なすぎ、一個人に対して世界というものはあまりに大きく重かった。だから、助け合いがどうしても必要だったし、人々のつながりは強固だった。それがすなわち、「人間関係の絆が強固」って事だったのだと思います。
現代は人間関係が希薄で、精神的な豊かさが足りないとか何とか言いますが、それはそのまま、人間社会が豊かになったことと同意義なんだと思うわけです。
つまり、一人一人が、自分ひとりで出来る事も思い通りになることも増えた。=豊かになり、生活が改善された……ってことがそのままダイレクトに、人間関係を強固に保っておく必要性がなくなったって事なわけです。常に外界からの脅威に曝され、いつ何時他人の手が必要になるか分からない……どころか、一人で成り立つ事など日常生活ほとんどない、ということが直に生活の中に実感できた頃。そんな時には人間関係を希薄にするなんて事は出来るはずもなかった。つまり、「人間関係が希薄でも生きていける」事そのものが、豊かさってもんじゃないのか、とも思うわけです。
しかしそんな風に豊かになったのはここ数十年ってレベルで、人間の脳みそを構成する遺伝子やら本能やらは千年単位で変わるか変わらないかってスケールだと、どうしても齟齬が生じる、それが「精神的な貧しさ」とか何とか表現されるものなのではないでしょうか。
そう考えたら、それだけを嘆いてもしょーがないじゃん、精神論で愛と心の豊かさを語る前に、物理的、具体的レベルで把握した方がよほど改善に繋がるんじゃないか……などと考えるわけですが、まあ、それはいいんです。余談ですね。

で、えーと何を語りたかったかって……ええと。

ぶつかって、ねじ込む時は非常にストレスフルです。
就活だって要するにそういう作業ですし、実際内定もらって職場に入る時もそう。
上手く行かないこと、失敗すること、山ほどあるだろうな、と思う。
でも、それを避けたってしょうがないし、自分が辛いだけなんだと思うわけです。
たとえノロに罹って寝込んでも、交通事故で片足なくなっても、「ああ、そうなんだ」で終わらされる事への本能的恐怖にずっと曝されてなければならない……それこそが人間の耐え難い孤独って奴でしょう。

所詮は他人同士なわけですから、「貴方の事なんか必要ない」と言う相手を必要とするようなリスクは誰だって取りたくない。だってその人は、自分を助けてくれないだろうからね。
「貴方(組織)の事が必要です、だから受け入れてください。私は貴方(組織)のためにその代わり、こんな事が出来ます」
と示すのが、いわゆるコミュニケーション能力なのかなぁ、と。
誰も、「自分を気にかけるつもりも、必要とするつもりもない」相手と付き合いたくなんかないでしょう。無視られると分かっていて、献身するのはよほどの時です。
そういう、「私は貴方が必要です」という意思表示=「自分の意見を言う」ことだったりするんだろうと。何故なら、「自分の意見を言う=その相手に自分の意見を聞いてもらわなければ自分は困る」という意思表示になるからです。ここでツンデレしちゃあかんのだろうな、と思います。拒絶されるのが怖い、ってのはあると思うけど。

などと……寮生活三年間、大学生生活三年間(四年は大学生というより研究室生だ)、研究室生活二年間を通して思いました。
そこにあるのは利害関係で、奇麗事だけじゃなくて、ストレスフルで、下世話で、ある意味汚い。でも、それが「リアル」って事なのだと思います。精神だけじゃなく、物質を、物理的条件を伴っていること。
物理的・物質的拘束を伴った「リアル」な関係を受け入れようよ、ファンタジーが歌う精神的な世界から抜け出して。私たちには肉の体がある。
そう、言いたいらしいですよ、この人。
つまり私は元々はファンタジーな精神世界にはまってるタイプの人種ってことですな、自分にこう言い聞かせ、気付くという作業があったってことは。
そして多分、私はこういう内容を物語にのせて表現したいんだろうな。
例の、「私が死んだら~」から始まる話で。
そうして、私と同じようなわだかまりや恐怖を持ってる人たちにとってその物語が、応援歌になればいいな、と思うわけです。つまり、テーマ?
やあ、なかなか書けなくて……などと誤魔化してみますがホント。想いばかり熱くて、それを的確に表現する物語を思いつかなくて寝かせてありますよ。そしてしょっちゅうこうやっていじってる。




そしてもう一個。
失敗する事を恐れるな、なんて手垢の付いた言葉がありますが、それと同じ意味で、もっと自分の心にダイレクトに伝わるものを。

「叱られた所が、始まり」

叱られる、怒られることは終わりじゃない、それで全部が終わるわけじゃない。
そここそが、スタート地点なのだ、ということ。
叱られる、怒られるっていうのは親とか先生とかってばかりじゃなくて、他人に何かのアクションを起こして、ソレに対して何らかの(肯定でない)リアクションが返ってきた時のこと。
そこを終わりにしたら何も始まらない。
そのリアクションを分析して、じゃあどうするべきかを考える事こそが前へ進む事なら、そのリアクションを返してもらった時こそが「スタート」なのだ、と言いたいのです。
今回の私みたいに、もうそれっきりこれっきり、その相手(履歴書送った先の企業様ですわよ、ふふふふふ)とは縁が切れてしまう場合もあり、親だったり先生だったりして、対面してその後の相手をしてくれる場合もあり。どっちにしろ、一回ぶつかったら「じゃあどうするか」を自分で考えるのが一番精神衛生にもいいし、楽なんだ、と学びました。ええ、糖尿病になって。
(目下一番欲しいのは就活的表現力……orz 自己流でやってみて失敗したので、それをベースにプロに教えを請うてきます)



とか何とか、ぐだー、ぐだーと書いてみました。
結局、自分のこととなると、プライベートの生活でのパートナーを得る(よーするに結婚相手を見つける)所までまだ全然漕ぎ着けてないんだけど、こうやって死に掛けると真面目に、一緒に老後まで行ける(親とかは居なくなるので)相手が欲しいなあ、どーしたもんかなあ、と考えるわけです。
とりあえず今は就活があるので、組織にねじ込む事が最優先ですが、結婚の方は何と言うか……運命共同体になってくれる同性が居てくれれば、それはそれでもいいような気がする色気のなさ。でもやっぱ男子との縁が近い方が華やぎますね(笑)

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