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2011-06-08 10:38:25 | 今日は何の日

歴史のウラ話&「今日は何の日」です!


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2006年08月01日


筑紫国造磐井が反乱を起こす 継体天皇21年(527)

「筑紫国造磐井の乱(つくしのくにのみやつこいわいのらん)」と言っても、あまり知られている事件ではないので、多くの方にとってピンとこない事件ではないだろうか。

この乱は、聖徳太子の時代よりもさらに古い、527年に起きている。当時の日本は、いわゆる「古墳時代」で、各地の有力豪族たちが勢力を広げようとして、中国などの力を借りて争っていた。

争いは大王の跡継ぎを巡ってのものとなったが、やがて勢力を伸ばしていた越の国(当時の北陸地方の国)の男大迹王(おおとのきみ:継体天皇)が大和朝廷の大王として大和に迎えられる。これでひとまず、国内の混乱は終息したように見えた。

ところが、ここで朝鮮半島に重大な変化が訪れる。中国との貿易などで関係の深かった朝鮮半島南部の伽耶(伽羅ともいう)が、隣国の新羅に攻められ危機的状況に陥ったのである。

男大迹王は、ただちに援軍を派遣して、新羅を討つことを決定し、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)という人物に命じて、軍隊を派遣したが、さらに九州北部で強い勢力を持っていた筑紫国造磐井にも兵を出すよう命令した。しかし、この命令に磐井が反抗。筑紫の隣国である火(肥)の国(熊本県あたり)や豊の国(福岡県あたり)に援軍を頼んで、大反乱を起こしたのである。

磐井は手始めに進軍してきた近江毛野臣の軍を攻撃し、大和朝廷の新羅進攻軍の進軍を阻んだが、これを知った大和朝廷も黙ってはいない。大和朝廷では、大王自ら物部麁鹿火(もののべあらかひ)に磐井を討つための斧鉞を与え、彼を磐井討伐軍の総大将とした。麁鹿火はただちに軍勢を率いて筑紫に出向。磐井の軍と激戦を繰り広げた。

磐井の乱は一年半の長きに渡って続いたが、継体天皇22年(528)の11月、筑紫御井郡で磐井と麁鹿火は最後の決戦に及んだ。ここでとうとう磐井は討ち取られてしまう。斬殺だったというが、一説には磐井は落ち延びたとも伝えられ、真相は不明である。ちなみに磐井の子である葛子は、筑前糟屋の屯倉を大和朝廷に差し出して、死罪を免れた。

なお、『日本書紀』などによると、磐井の乱は、以前から大和朝廷に反抗的だった磐井が、やはり以前から新羅の援助を受けており、この時、大和朝廷の軍勢が新羅を攻撃することを決めたことを受けて、新羅が磐井に進軍を食い止めて欲しいと依頼したものであるともいう。つまり磐井と新羅はグルだったということだ。
日本書紀の記述は、歴史書としては伝承的な部分も多いが、磐井は生前から自身のためのものと思われる巨大な古墳を築いたりしていたので、ありえる話ではあるだろう。

※この乱の勃発日については別説もあります。

⇒磐井の墓と伝えられている岩戸山古墳周辺の地図(livedoor地図情報)

※写真は『筑紫君磐井の戦争―東アジアのなかの古代国家』。多くの文献にあたっている本格的な研究書です。


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(キーワード)

●筑紫国造磐井(つくしのくにみやつこいわい)

筑紫磐井、筑紫君石井ともいう。「筑紫国造」は、大和朝廷の職名。要するに地方政治を委任されている豪族ということである。

経歴については詳細はわかっていないが、継体天皇の新羅討伐軍参加への命令を拒否して反乱を起こし、約一年半に渡って大和朝廷軍と戦ったことがよく知られている。最終的には物部麁鹿火に討たれて斬殺されたようだが、落ち延びて姿を消したとも言われている。

「筑後国風土記」の逸文には、磐井が生前から巨大な墳墓を築いていたという伝承が記載されており、そこには石づくりの埴輪が並べられていたという。このことから、磐井はこの地に絶大な勢力を誇っており、かねてより大和朝廷に反乱を起こすことを目論んでいたとも考えられる。なお、この墳墓は現在の岩戸山古墳ではないかとされている。


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教科書では、「磐井が反乱を起こした」程度にしか習わないですよね。乱があったことは知っていたんですが、その中身はさっぱり…。今回調べてみて大まかなところはわかりました。

しかし、もし磐井が勝っていたら、日本の天皇制が揺らいでしまうのか…と思いましたが、磐井は磐井で応神天皇の子孫を名乗っていたそうです。一応、血のつながりはあるってことで、劇的な変化はない…のかな?


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