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弘安の役の元軍が壊滅 弘安4年(1281)

2011-06-01 17:07:47 | 今日は何の日
2006年07月01日





2006年07月01日




弘安の役の元軍が壊滅 弘安4年(1281)

弘安の役は、二度目の元寇である。元寇は、そもそも稀代の英雄チンギス・ハーンがモンゴル統一から作り上げた大帝国「元」による、日本征服であった。当初、「元」の皇帝フビライハーンは、日本に使者を送って、入貢を求めてきていた。しかし、時の執権・北条時宗はこれを拒否。怒ったフビライが、征討軍を送ってくるという流れで元寇に至る。

初の元寇は弘安の役の7年前で、文永11年の秋。この時は、九州地方を中心に勇猛果敢な御家人たちが防戦にあたったのだが、初対戦のうえ、いちいち名乗りをあげる日本の戦い方は全く通用せず、毒矢や”てつはう”と呼ばれる火薬兵器に悩まされる。

散々に追い散らされた日本軍であったが、日没と共に元軍は追撃を中止。にわかに雨が降り出したのである。元軍はこの時、海上の船まで退却した。そして夜半には、博多湾に暴風雨が吹き荒れ、元軍の船を飲み込んでしまった。日本はこれによって、どうにか事なきを得たのである。

弘安の役の遠征軍は、4万人の東路軍と10万人の江南軍の計14万にも及ぶ大軍であった。このうち、4万の東路軍軍は対馬・壱岐を順調に陥落させ、九州・博多に殺到する。

幕府は、文永の役後、九州北岸に防御設備を構築しており、さらに御家人総動員で防衛にあたった。主な面子は少弐経資、竹崎季長、河野通有、大矢野種保など。すでに敵の戦い方を心得ていた幕府御家人たちは、敵の上陸を阻止することに成功し、志賀島に仮泊していた敵船に夜襲を仕掛け、散々に打ちのめした。

しかし、やがて江南軍の船も到着。敵軍は博多湾の深部にまで船を進めてきた。ところが、敵船およそ4千4百が碇を投げる前に、博多を大台風が襲った。暴風吹き荒れ、荒波に襲われた元軍の船は次々に海底に沈んでゆき、わずかに残った船は命からがら逃げていった。翌日、台風の去った海上には、昨日に威容を誇った元軍の姿はなく、暴風雨にのまれたと知った幕府軍は勢いにのって残党を掃討し、数千人を捕虜にしたというが、この捕虜はあとで残らず処刑されたという。

何はともあれ、日本は一度ならず二度までも、暴風雨に救われた。以後、日本はこれを「神風」と称し、日本の国土は神によって守られているという思想が広まったのである。

⇒元寇防塁遺跡周辺の地図(livedoor地図情報)
※元寇の防塁は、博多湾沿いに数箇所に渡って残っています。以下のサイト様が写真と共に詳しい地図を載せておられます。(「英純先生の歴史教室」元寇のページは⇒ttp://www.kcn.ne.jp/~eijun/genkou/genkou.html。リンクフリーとは書いてなかったので、直リンしません。)

※写真は元寇について詳しい『蒙古襲来〈上〉転換する社会 鎌倉時代中期』。元寇のだいぶ前から書き出してあるので、鎌倉時代中期を概観するのにもオススメ。逆に元寇だけが知りたい人にはちょっと前半がウザイかも(笑)。下巻もあります。


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(キーワード)

●フビライ=ハーン(ふびらい=はーん)
日本の鎌倉時代中期頃に成立した大陸の巨大国家「元」の初代皇帝。チンギス=ハーンの末子・トゥルイの三男であるから、チンギスの孫ということになる。クビライとも呼ばれる。

「元」はモンゴル帝国が元となる国家であり、フビライはモンゴル帝国の5代目のハーン(国王)であった。フビライは、先代・モンケに従って、中国征服に尽力。また大理国(雲南省)やチベット方面にも遠征して、これを征服した。モンケの死後、1260年に帝位について、1271年に国号を「元」とした。その後も南宋や高麗を併合して勢力を広げ、さらに日本や東南アジアにも服属を求めて使者を送った。

日本には、服属要求を拒否されたため、大軍を派遣して占領しようとした(元寇)。しかし、1274年、1281年の二度に渡る侵攻作戦は、二度とも暴風雨に阻まれて失敗。フビライは日本占領を諦めた。


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元寇かー。名前が紛らわしかったなあ。豊臣秀吉の朝鮮出兵があるじゃないですか。あれは、日本では文禄の役、慶長の役と呼ぶわけですが、こちらは文永の役と弘安の役。両方とも2回だし、おまけに「文」がつくし…。もう大変だよね。覚えるのが。

え?時代が離れてるし、言うほど覚えにくくないって?あ…そう…弘安4年(1281)
弘安の役は、二度目の元寇である。元寇は、そもそも稀代の英雄チンギス・ハーンがモンゴル統一から作り上げた大帝国「元」による、日本征服であった。当初、「元」の皇帝フビライハーンは、日本に使者を送って、入貢を求めてきていた。しかし、時の執権・北条時宗はこれを拒否。怒ったフビライが、征討軍を送ってくるという流れで元寇に至る。

初の元寇は弘安の役の7年前で、文永11年の秋。この時は、九州地方を中心に勇猛果敢な御家人たちが防戦にあたったのだが、初対戦のうえ、いちいち名乗りをあげる日本の戦い方は全く通用せず、毒矢や”てつはう”と呼ばれる火薬兵器に悩まされる。

散々に追い散らされた日本軍であったが、日没と共に元軍は追撃を中止。にわかに雨が降り出したのである。元軍はこの時、海上の船まで退却した。そして夜半には、博多湾に暴風雨が吹き荒れ、元軍の船を飲み込んでしまった。日本はこれによって、どうにか事なきを得たのである。

弘安の役の遠征軍は、4万人の東路軍と10万人の江南軍の計14万にも及ぶ大軍であった。このうち、4万の東路軍軍は対馬・壱岐を順調に陥落させ、九州・博多に殺到する。

幕府は、文永の役後、九州北岸に防御設備を構築しており、さらに御家人総動員で防衛にあたった。主な面子は少弐経資、竹崎季長、河野通有、大矢野種保など。すでに敵の戦い方を心得ていた幕府御家人たちは、敵の上陸を阻止することに成功し、志賀島に仮泊していた敵船に夜襲を仕掛け、散々に打ちのめした。

しかし、やがて江南軍の船も到着。敵軍は博多湾の深部にまで船を進めてきた。ところが、敵船およそ4千4百が碇を投げる前に、博多を大台風が襲った。暴風吹き荒れ、荒波に襲われた元軍の船は次々に海底に沈んでゆき、わずかに残った船は命からがら逃げていった。翌日、台風の去った海上には、昨日に威容を誇った元軍の姿はなく、暴風雨にのまれたと知った幕府軍は勢いにのって残党を掃討し、数千人を捕虜にしたというが、この捕虜はあとで残らず処刑されたという。

何はともあれ、日本は一度ならず二度までも、暴風雨に救われた。以後、日本はこれを「神風」と称し、日本の国土は神によって守られているという思想が広まったのである。

⇒元寇防塁遺跡周辺の地図(livedoor地図情報)
※元寇の防塁は、博多湾沿いに数箇所に渡って残っています。以下のサイト様が写真と共に詳しい地図を載せておられます。(「英純先生の歴史教室」元寇のページは⇒ttp://www.kcn.ne.jp/~eijun/genkou/genkou.html。リンクフリーとは書いてなかったので、直リンしません。)

※写真は元寇について詳しい『蒙古襲来〈上〉転換する社会 鎌倉時代中期』。元寇のだいぶ前から書き出してあるので、鎌倉時代中期を概観するのにもオススメ。逆に元寇だけが知りたい人にはちょっと前半がウザイかも(笑)。下巻もあります。


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(キーワード)

●フビライ=ハーン(ふびらい=はーん)
日本の鎌倉時代中期頃に成立した大陸の巨大国家「元」の初代皇帝。チンギス=ハーンの末子・トゥルイの三男であるから、チンギスの孫ということになる。クビライとも呼ばれる。

「元」はモンゴル帝国が元となる国家であり、フビライはモンゴル帝国の5代目のハーン(国王)であった。フビライは、先代・モンケに従って、中国征服に尽力。また大理国(雲南省)やチベット方面にも遠征して、これを征服した。モンケの死後、1260年に帝位について、1271年に国号を「元」とした。その後も南宋や高麗を併合して勢力を広げ、さらに日本や東南アジアにも服属を求めて使者を送った。

日本には、服属要求を拒否されたため、大軍を派遣して占領しようとした(元寇)。しかし、1274年、1281年の二度に渡る侵攻作戦は、二度とも暴風雨に阻まれて失敗。フビライは日本占領を諦めた。


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元寇かー。名前が紛らわしかったなあ。豊臣秀吉の朝鮮出兵があるじゃないですか。あれは、日本では文禄の役、慶長の役と呼ぶわけですが、こちらは文永の役と弘安の役。両方とも2回だし、おまけに「文」がつくし…。もう大変だよね。覚えるのが。

え?時代が離れてるし、言うほど覚えにくくないって?あ…そう…


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