平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

築山古墳・磐園陵墓参考地

2009年04月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 築山古墳は、奈良県大和高田市築山字城山にある大型前方後円墳で、馬見古墳群の南群の葛城氏盟主墓とされ、 宮内庁が磐園陵墓参考地として管理し中に立入ることは出来ません。  4世紀後半の佐紀大王家が成立するとほぼ同時期に応神の外戚となった葛城氏が大きく成長する。 奈良盆地西部の馬見古墳群の巣山古墳(武内宿禰の墓の可能性がある)に並んで 築山古墳も葛城の王墓と考えられ、佐紀の大王墓に匹敵する規模を誇っている。 因みに、葛城の王墓として建造された室宮山古墳は、仁徳の妃・磐之媛の父で履中の妃・黒姫の祖父にあたる葛城襲津彦の墓である可能性もある。 葛城襲津彦の子で磐之媛とは兄妹にあたる葛城葦田宿禰は葛城北部に、黒姫と兄妹関係にあった玉田宿禰は葛城南部を支配し、この二系統はそれぞれ佐紀大王家、河内大王家と結びつきがあったと見られる。 特に南部葛城地域が紀伊水道から奈良盆地にいたる紀ノ川ルートの玄関口になっていたから南部が発展し、河内大王との結び付きから河内大王への移行へとつながることとなる。この移行に大きく貢献したのは紀氏であり水軍の統括は、和歌山の楠見遺跡や鳴滝遺跡に見ることができる。

 墳丘長は210mあり、後円部径は120m、前方部幅は105m。情報は少ないが、採集された埴輪片から、4世紀後半の築造が考えられています。  歴史的には不明であるが、南西約300m離れた名倉北池(平田荘の有力武士である万歳氏の城跡:付近に池田遺跡がある。)と同様に、城として使用された可能性があり、すぐ南方にも城と関係を推測させる馬場崎と言う場所があります。 蒲生君平の山陵志では、南にある全長75mの前方後円墳である狐井塚古墳(現 陵西陵墓参考地)と共に、武烈天皇陵と顕宗天皇陵に比定されている。 古地図には、共に片岡石杯岡の北陵・南陵として記されてもおり、付近の地名である磐園や、磐築橋の名のいわれと思われる。 東方向には直径95mの近畿最大の円墳であるコンピラ山古墳は、金毘羅神社が墳丘上に祀ってあったことから名がついたもので、三輪山大神神社の大物主神と祭神が同じである。 また、築山古墳の周堤帯とコンピラ山古墳の間に数mの段差が、南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池となり築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。 築山古墳は、多くの大小古墳に囲まれており、築山駅前すぐ南のインキ山古墳(前方後円墳)、大谷山自然公園の中に残る複数の古墳、かん山古墳(帆立貝式前方後円墳)、古屋敷古墳(築山古墳の西北)、茶臼山古墳(築山古墳の南西)、狐井塚古墳(築山古墳の南東)、コンピラ山古墳(築山古墳の東)等がある。  

 

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新庄・二塚古墳

2009年04月20日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 雄略天皇により葛城円が殺害され葛城首長一族が没落した後に忍海氏(おしぬみ:性格には造一族)が台頭する。氏は681年連の姓を与えられた。天智天皇の宮人・色夫古郎女などに見られる。 色夫古郎女は川島皇子、大江皇子(天武妃となり弓削皇子を生む)を生んだ。 この忍海の地域で最古の古墳は新庄町屋敷山古墳で、ほかには飯豊陵古墳・二塚古墳などがある。 葛城本家が滅びるなかで忍海氏が生き残ったのには忍海郎女つまり飯豊女王の存在が大きいと考えられる。 (またの名を青海郎女) 河内、播磨、丹波、因幡に大きくかかわりを持っていた忍海造氏は(河内忍海部)開化天皇妃・竹野姫を生んだ比古牟須美命を祖とし、因幡の忍海部は開化天皇と葛城垂見宿禰の娘・鸇比売との間にできた建豊波豆羅和気王を祖としていたのである。 つまり忍海部を掌握した忍海造氏は葛城氏の同族以上に葛城垂見宿禰の系統につながるのである。 葛城玉田も葦田宿禰系も亡んだが、葛城垂見宿禰系のみが忍海造氏として生き残った。

  襲津彦が活躍した4世紀末から葛城南部に巨大古墳が造られるようになる。その最大は葛城川と曽我川の分水嶺ともなっている室の王墓・宮山古墳である。 ここは孝安天皇・室秋津島宮跡の石碑があり、墳頂の石室は一部開いていて石棺を見ることができる。 ここ宮山古墳は允恭天皇時代の竹内宿禰の墓とも襲津彦の墓とも言われている。 また、北側の新庄地域にはもうひとつの大型古墳群があります。 神塚古墳・屋敷山古墳・飯豊陵古墳である。 これらの古墳群は玉田宿禰系の有力者であったとみてよい。 馬見丘陵周辺の葦田宿禰系の王よりも玉田宿禰系の王一族の構成のほうが階級分化はより多様化していた。

 このような背景の中で忍海の地域のつくられた新庄・二塚古墳は前方後円墳で、葛城山の山麓・標高約200メートルの場所に位置している。 墳丘は二段構築で全長は60メートル、後円部の直径は36メートルで高さは10メートル。 後円部の横穴式石室は古くから開口しており、1958年の発掘調査で後方部と西側の造り出し部分にも横穴式石室があることが判明した。 出土品は奈良国立博物館が収蔵している。 出土品などの分析から、築造時期は6世紀中ごろ。 

                                                                                    春日大娘皇女
但馬清日子孫┓    宮主宅媛                  ┣橘仲皇女 
   葛城高額媛    ┣雌鳥皇女    荑媛(葛城蟻臣娘)    ┣白香皇女 
    ┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子   ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇 
息長宿禰王┃      ┣矢田皇女      ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498 
       ┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女         ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
 ┣ 坂皇子  ┣ 16代仁徳天皇257-399    ┣ 御馬皇子
 ┃      ┣ 根鳥皇女┃       ┣ 飯豊青皇女(記紀)
 
 ┣ 忍熊皇子┏仲姫命   ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
 
大中姫     ┣高城入媛   ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
 品陀真若王┛┣大山守   ┣ 18代反正天皇336-410
  
         応神天皇   ┣ 19代允恭天皇  -453
  
         ┏━   磐之媛命   ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
   開化天皇
┃ 仁徳天皇      ┃長田大郎女                     ┃
 
  ┣和気王
┃   ┃        ┏ ┃┻眉輪王┣                     ┃ 
    鸇比売
  ┃   ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰
┛   ┃   ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
 ┗□□┓   ┃  日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子   和珥童女君

甘美内宿禰   ┃       ┗ ┃━┓       ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰
   ┣ 葛城葦田宿禰   ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
  ┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子  ┃
  ┣巨勢小柄宿禰 ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
 ┣蘇我石川宿禰 ┃ 
┗毛媛  ┃ 吉備稚媛      ┣ 22代清寧天皇444-484
 ┣平群木菟宿禰  ┃吉備臣┃┏━┃━┛       ┣ 稚足姫皇女
 ┣紀角宿禰      ┃  ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
 ┗羽田矢代宿禰
  ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円  
            ┗葛城蟻臣  ┣忍坂大中姫      
                   ┗荑媛  ┗衣通姫(そとおりひめ

 

 

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當麻寺・浄土庭園

2009年04月20日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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當麻寺・奥の院御影堂

2009年04月19日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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小野妹子墓

2009年04月19日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 小野妹子は厩戸皇子による600年第1次の遣隋使派遣には選ばれなかったものの、607年の第2次に派遣され小野氏を一躍トップに引き上げた人である。 小野氏は遣隋使の小野妹子や小野小町などの著名人が多く天武朝の仕えた小野朝臣毛人(位は飛鳥浄御原令制定後の官職・大錦上で、日本書紀でも小野朝臣がみえる。 小野毛人の子は小野毛野であり遣新羅使や太宰大弐に任ぜられたこともある。 毛野は714年になくなっているが続日本紀に「推古朝の大徳冠妹子の孫、小錦中毛人の子なり」 とある。) は小野妹子の子である。  小野氏は平安遷都の以前から岩倉盆地に拠点を持つ山城の豪族である。 小野氏はその昔、大化の改新の頃は和邇臣系に属し、葛城氏や蘇我氏と並ぶ有力な大氏族で、春日、大宅、粟田、柿本、小野に分裂し小野妹子、小野老から小野岑守・小野篁といった公卿期を絶頂とし、その後も古今歌人の小野春風、小野道風を輩出するが、小野小町で没落の一途を辿った。7世紀末に、小野氏は小野郷内を本拠地としていたのである。

 

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當麻寺・奥の院へ

2009年04月18日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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茶臼山城主・池田家墓所

2009年04月18日 | 戦国時代

 片桐池田家は、姫路城主・池田輝政の弟を祖として始まり、ここ茶臼山に七代目までの墓所が立派に残っていました。 周匝領主・片桐池田家は備前岡山藩の家老家として今の岡山県赤磐市周匝(すさい)に陣屋を設け、旧赤坂郡を主な領地としていた片桐家 (片桐池田家、または周匝池田家とも呼ばれる) は、織田信長の家臣であった池田恒興の四男池田長政を祖とし、その子である池田長明の時代に備前国赤坂郡周匝の地に入ります。池田長政は 八歳で池田家家老片桐半右衛門の養子となり、片桐の娘を室としますが、子は早世し、後室の伊予松山城主 加藤嘉明(15万石)の娘が長明を産みます。

 片桐半右衛門は、戦国時代の末、織田信長の時代に池田恒興の家老として岐阜県に城を預かっていました。  もともと信長の家臣であった片桐半右衛門を、1560年の桶狭間の合戦で手柄を上げ侍大将になった池田恒興が信長に願い出て、香川清兵衛(後の伊木)、土倉四郎兵衛とともに家老に迎えたことが片桐池田家の興りとなっています。  1582年に本能寺の変が起こり、秀吉の天下がまだ固まらないまま翌天正十一年(1583)には池田恒興が大垣城に入ったときに、片桐半右衛門は池田恒興の二男である池田輝政に付けられて大垣城の出城である池尻城を預かります。  その翌年 1584年には、秀吉方に付いて家康の軍と対峙していた池田恒興が長男の之助と共に長久手の戦いで討死し、替わって二男の池田輝政が池田家を継いで大垣城主に入り、1585年には岐阜城主となります。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死

 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)

 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-  督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┃
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘

 ┃┃┃  ┣-
 
┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)

 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘

 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓

        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退)
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636
 
1510-1551    ┃  ┣登久姫
                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
 
  ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
 
  ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582 

 

 

 

 

 

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美作・月の輪古墳

2009年04月17日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 月の輪古墳は、岡山・美咲の大平山山頂に築かれた5世紀前半の古墳です。 発掘調査では、墳頂部の2基の木棺から男性と見られる遺骸と首飾り・鏡・鉄製短甲・革製草摺・刀・剣・鉄鏃・銅鏃などの副葬品および、女性と見られる遺骸と首飾り・漆塗竹櫛・鏡・刀・剣・鉄針・石釧などの副葬品が出土したそうです。 山頂の説明板まで車でいくことができ、古墳高10mを登ると墳頂部にたどり着きます。 この古墳の隣には王子古墳があり、車をすすめましたが、途中で道が途切れており断念しました。 

 

 

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2009年04月16日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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當麻寺 中将姫伝説

2009年04月16日 | 奈良・飛鳥時代

 中将姫(747-775)は、右大臣藤原豊成 (藤原鎌足の曾孫)の娘である。 豊成はその頃朝廷に使えていた紫の典侍という美しい官女を妻に迎えたが、久しく子供が産まれず、そのために夫婦は長谷寺の観音に参篭して祈願をこめ、そして生まれたのが中将姫である。 ところが不幸なことに、姫が5才の時、その母が亡くなったので、父豊成は橘諸房の娘・照日前を後妻として迎えた。  姫は生来、輝くばかりの美貌と才能に恵まれ、9才の時には孝謙天皇の前に召されて、並み居る百官の前で琴を弾いた。天皇は大変感心されて、褒美として玉の簪を賜われた。姫が成長するに従い、和歌や音楽の才能はますます人々の目を見張らせるようになり、15才の時には三位中将の位までいただいた。それ以降、世間ではこの姫のことを中将姫と呼ぶようになる。  ところが継母の照日前は、こうした姫を次第に憎むようになり、ついには殺そうとまで思い詰めるようになる。 その頃、豊成は橘奈良麻呂が起こした反乱に関与したとして、九州に流罪となった。照日前は、この時とばかり、一気に姫を殺そうと計った。 しかし、姫はその身の上に同情した一人の家来によって危うく難を逃れたが、更に執拗に迫る追っ手から逃れるために、長谷寺や雲雀山など、あちらこちらをさまよい歩いた。  この時、姫は風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈った。『桜よ、お前は私に代わって、いつまでもこの観音様をお守りしておくれ。そしてそのご威徳を美しい花で末永く飾っておくれ。』そして観音様に向かい、『観世音菩薩様、私は今度の病気で、女の身には女しか分からない様々な苦しみがあることを知りました。どうか菩薩のお力で、この桜の花や枝葉を大切に保持する婦人には、あらゆる女性特有の災厄から守り、安産に、育児に、良縁に、夫婦の生活に、女の幸せをいっぱい与えてやって下さい。』  このようにして姫は、90日もの長い間、一心に祈り続けた。長い祈りを終えると、姫は大和の当麻寺で織ったのと同じ蓮糸の曼陀羅を一幅織り上げ、それを当山に納めた。この曼陀羅はその後長く寺の宝物として大切にされていたが、どういう訳があったのか、寛正三年に、尾張国飛保(愛知県江南市)の円福寺に飛んでいった。円福寺の方では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と称号を改めた。

蘇我娼子娘
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737 
  ┃   ┣ 豊成  704-765  
  ┃  ┃   ┣  中将姫747-775(母:紫の典侍) 
  ┃  ┃   ┗  継縄ツグタダ-796(桓武天皇側近) 
  ┃   ┣ 乙麻呂            ┣ 乙叡オトエ-808 ━平子
  ┃   ┃   ┗是公(これきみ) 百済王明信
  ┃  ┃     ┣ 吉子   軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主
  ┃  ┃     ┣ 真友   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
  ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
  ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807     ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃    ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫    ┣藤原伊勢人┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王
  ┃       ┣黒麻呂    ┃    ┃┃┃ ┣恒世親王    ┃┃┃┃
  ┃       ┗真作      ┃    ┃┃┃ 53淳和天皇     ┃┃┃┃
  ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇)   
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇)   
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王    ┣正子 藤子 
  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王   橘清友┣54仁明810-850*
  ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃         ┣橘嘉智子┣55文徳帝   
  ┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃               ┗橘安万子順子┗56清和 
  ┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          藤原真作┃        
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守        
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子  
  ┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 
  ┃         永継    ┃    ┣山部王(50代桓武天皇)737-806
  ┣ 宇合(式家)694-737  ┃  ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788   
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇)
  ┃   ┃  ┣ 諸姉(百川室)┃  ┣ 能登内親王733-781 
  ┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)
  ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775
  ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)
  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣
  ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇
  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王 
  ┃長岡造 ┗ 種継737-785 ┃ ┃     ┗ 氷上川継782の謀反
  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744 
  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃
  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃
  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 
  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ 
  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)
藤原不比等 659-720

 

誓いの石 と 誓願桜

 

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當麻寺・浄土庭園

2009年04月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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2009年04月15日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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當麻寺

2009年04月14日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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源義家墓 後三年の役

2009年04月14日 | 陵 古墳 墓 遺跡

後三年の役と源義家

 前九年の役の勲功により清原武則は俘囚の主として鎮守府将軍に任命された。 武則はもともと清原氏の庶流であったが、兄・光頼より惣領の地位を受け継ぎ、安倍氏による奥六郡支配権を奪い取ったのである。 1070年陸奥守・源頼俊は終任にあたり、後三条天皇の親政の一環として行われてきた北海道の荒夷まで服従させたと報告する。 この征服は鎮守府将軍・清原武則の孫である真衡の功績が大きいとして鎮守府将軍に任命されたのである。真衡による奥州平定は安定し、1083年新任受領義家による初任検注も何ら妨害を受けることなく行われた。 しかし清原氏庶流から成り上がった真衡には異母弟・家衡、叔父・武衡らの反感を生むことになる。

 惣領真衡には実子がなく、庶流との緊張関係のなかで惣領家の支配的地位を維持するには海道氏から成衡を養子に迎えるしかなかった。成衡は源頼義の娘を妻とすることにより惣領家の安定を図っている。ところがこの婚儀の席で、ある事件がおきたのをきっかけに、真衡側と庶流がぶつかるのである。 庶流側の吉彦秀武(清原武則の娘婿)は同じく従者扱いされてきた清衡(源頼義に討たれた経清の忘れ形見で奥州藤原氏の祖)、家衡(清原武貞の子)を見方につけた。 こうして異母兄弟、異父兄弟間の惣領家と庶流の対決が始まるのである。

 ちょうどこの1083年に源義家が陸奥守として着任すると、清原真衡は義家に至極の饗宴を催し、吉彦秀武を討つべく出羽に向かった。 それを知った清衡、家衡はただちに真衡邸を襲撃するが、源義家に撃退されている。この間に真衡は出陣の途中で急死し、清衡、家衡が義家に投降した。 このとき義家は武則、武貞、真衡三代に渡って支配してきた奥六郡司職を召し上げ、これを清衡、家衡に与えたのである。 こうして清原惣領家は滅亡し清衡、家衡の間で緊張感が高まっていく。

 1086年、清衡邸が家衡により襲撃され妻子は殺害されると、源義家は出羽国沼柵に立て篭もる家衡を軍勢を率いて攻めた。 これには義家の策略がからんでいる。 1086年は鎮守府終任の年であり、重任を望んだ義家が清衡、家衡を挑発して勲功を期待してのことであった。ところが家衡の猛攻はすざまじく、義家は屈辱の中で撤退した。 武名を誇る義家はこのまま終任を迎えて帰京するわけにはいかない。 1087年戦闘準備に専念し、政府は合戦を停止させるために官使を派遣するが、義家は大軍を率いて家衡が篭る金沢柵に出陣。 なかなか城は落ちる気配を見せないため、兵糧攻めに切り替えた。家衡側は降伏を求めたが義家はこれに応じず、吉彦秀武の進言どおり皆殺しにしたのである。

 政府に対して武功を期待した義家であったが、後三年の役は私合戦であるとして褒賞もなく、結果的には私財を投じた義家の武勇は高まることになるが、武勇を恐れた政府(白河院・関白師実)は長きに渡って義家を陸奥前司のままとしたために、やがて源氏の棟梁としての勢力は弱まり、義家の死後源氏は分裂・衰退していくことになる。

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃             ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃             ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃             ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┃       ┣義宗?
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┃┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義光1045-1127┃┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃┃┗甲斐源氏  ┃┣義信     義平
 ┃ ┃┃ ┗武田氏  ┃┗義俊      ┣
 ┃ ┃平直方娘    ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┣義忠   ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    ┃1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面)
            ┣義時?
            ┃┣義基(石川源氏)
            ┃┃┗義兼
           ┃┣義広(紺戸氏)
           ┃┗義資(二条氏)
           ┗義隆-1159
            ┗頼隆1159-?(森氏、毛利氏祖)    

 

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當麻寺・三重塔

2009年04月13日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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