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築山古墳・磐園陵墓参考地

2009年04月21日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 築山古墳は、奈良県大和高田市築山字城山にある大型前方後円墳で、馬見古墳群の南群の葛城氏盟主墓とされ、 宮内庁が磐園陵墓参考地として管理し中に立入ることは出来ません。  4世紀後半の佐紀大王家が成立するとほぼ同時期に応神の外戚となった葛城氏が大きく成長する。 奈良盆地西部の馬見古墳群の巣山古墳(武内宿禰の墓の可能性がある)に並んで 築山古墳も葛城の王墓と考えられ、佐紀の大王墓に匹敵する規模を誇っている。 因みに、葛城の王墓として建造された室宮山古墳は、仁徳の妃・磐之媛の父で履中の妃・黒姫の祖父にあたる葛城襲津彦の墓である可能性もある。 葛城襲津彦の子で磐之媛とは兄妹にあたる葛城葦田宿禰は葛城北部に、黒姫と兄妹関係にあった玉田宿禰は葛城南部を支配し、この二系統はそれぞれ佐紀大王家、河内大王家と結びつきがあったと見られる。 特に南部葛城地域が紀伊水道から奈良盆地にいたる紀ノ川ルートの玄関口になっていたから南部が発展し、河内大王との結び付きから河内大王への移行へとつながることとなる。この移行に大きく貢献したのは紀氏であり水軍の統括は、和歌山の楠見遺跡や鳴滝遺跡に見ることができる。

 墳丘長は210mあり、後円部径は120m、前方部幅は105m。情報は少ないが、採集された埴輪片から、4世紀後半の築造が考えられています。  歴史的には不明であるが、南西約300m離れた名倉北池(平田荘の有力武士である万歳氏の城跡:付近に池田遺跡がある。)と同様に、城として使用された可能性があり、すぐ南方にも城と関係を推測させる馬場崎と言う場所があります。 蒲生君平の山陵志では、南にある全長75mの前方後円墳である狐井塚古墳(現 陵西陵墓参考地)と共に、武烈天皇陵と顕宗天皇陵に比定されている。 古地図には、共に片岡石杯岡の北陵・南陵として記されてもおり、付近の地名である磐園や、磐築橋の名のいわれと思われる。 東方向には直径95mの近畿最大の円墳であるコンピラ山古墳は、金毘羅神社が墳丘上に祀ってあったことから名がついたもので、三輪山大神神社の大物主神と祭神が同じである。 また、築山古墳の周堤帯とコンピラ山古墳の間に数mの段差が、南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池となり築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。 築山古墳は、多くの大小古墳に囲まれており、築山駅前すぐ南のインキ山古墳(前方後円墳)、大谷山自然公園の中に残る複数の古墳、かん山古墳(帆立貝式前方後円墳)、古屋敷古墳(築山古墳の西北)、茶臼山古墳(築山古墳の南西)、狐井塚古墳(築山古墳の南東)、コンピラ山古墳(築山古墳の東)等がある。  

 

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