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最強騎馬軍団・武田信玄

2009年04月02日 | 戦国時代

 武田信玄 は1521年に清和源氏の名門である甲斐武田氏の17代目として甲府で生まれた。 武田氏の本拠・躑躅ヶ崎館ではなく 要害山城とも積翆寺とも云われている。 父は信虎、母は大井氏の娘である。 武田信玄が家督を継いだのは父より受け継がれたのではない。 信虎は信玄(晴信)を忌み嫌い、弟の信繁に家督を継がせたいと考えていたた。 信繁は武田家の当主になろうという野心はなく、(兄信玄の部下として忠誠を誓った副将で 戦国の名将真田幸村の本名は信繁。 ) 信玄は父を追放する。 武田家の家臣が当主として選んだのは子の信玄のほうであった。 信玄は元服して初陣で手柄を立てたのであるが、 父と共に攻め立てた城が落ちずに引き上げた後、信玄は殿軍を願い出た。 殿軍は退却の際に大将をかばって敵と戦い、逃げ延びる時間稼ぎを行うのが目的である。 しかし信玄はその目的とは反して、城に籠もった敵を攻め立てて呆気なく落としてしまった。(敵の大将・平賀源心を討ち取ったのは騎馬隊侍大将の馬場信春) 初陣で大勝利を収めた信玄に対して父・信虎は命令違反を咎め、評価しなかった。 これにより自分が当主になることを誓った信玄は父を追放したのである。 このとき信虎の重臣であった板垣信方、甘利虎泰の賛同を得ているから謀略の片鱗をこのときから見せている。 信玄の姉は今川義元に嫁いでいたため、父を今川家に保護してもらおうとし、今川義元はこれに応じたのである。 今川義元も信玄の器量に呼応したのは信玄の姉の賛同もあったと考えられる。 信玄は息子・義信の妻に今川義元の娘を迎え入れている関係でもある。 (これにより、今川、北条、武田の三国同盟が成立) 後に今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られ、後継者として氏真が当主となったが、氏真は戦国史上名高いバカ殿であった。 お互いの政略結婚により均衡を保っていた武田家と今川家の同盟均衡が破れたのはこのときである。 武田信玄は今川領攻めに出たのであるが、これに反対したのが今川の娘を妻にしていた義信である。 そして義信は父に対して反乱を企てた。 義信は捕らえられ東光寺に幽閉されると、後に自刃して果てたとされる。 このときに連座したのが嫡男・義信の傅役であった飯富虎昌である。虎昌は信虎の寵愛をうけたが、武田信玄が信虎を追放したときに板垣、甘利同様、虎昌も信玄を推した。 そして義信の傅役を務めることとなったが、謀反の罪に問われては飯富家も廃絶するしかなかった。 虎昌には弟・三郎兵衛がいて、謀反の企てを告発せよといい含めたことから、三郎兵衛だけは功が認められた。 後に武田信玄の四天王となる山県昌景がその人である。 

 最初飯富源四郎と名乗った山県昌景は信玄の近習として次々と戦功を挙げ騎馬隊を率いる侍大将に抜擢された。 この精鋭部隊で敵の中核を崩し、次いで足軽隊で包囲殲滅するのが武田軍の必勝法である。 兄・飯富虎昌の謀反を告発することで飯富家は断絶となったが、武田信玄は昌景に絶えていた山県家を継がせたのである。 1572年武田信玄が京への道を確保する際、織田の同盟軍である徳川家康軍を蹴散らしたが、このとき武田信玄側の中核にいたのが山県昌景率いる騎馬隊である。 家康はかろうじて浜松城へ逃げ帰ったが、このとき恐怖のあまり脱糞していたという。 家康はこれを契機に戦略を武田流に変え、軍学・甲州流の祖である小幡勘兵衛を召抱えた。 家康は本能寺の変後、甲斐国に進出して多くの武田遺臣を採用しており、徳川四天王の一人・井伊直政に 赤備え(鎧兜を赤で統一したスタイルで、自分をアピールする必要のあった戦国時代に始めて山県昌景が行った) を受け継がせたというから家康がいかに武田軍および昌景を尊敬していたかがわかる。 昌景と同じ騎馬隊侍大将に馬場信春がいる。 抜群の武勇と勘のよさを持ち、築城術は山本勘助に学び 最後に1575年長篠の戦で討死するまではかすり傷ひとつ負わなかったという。 長篠の戦での大将は武田信玄の後を継いだ勝頼(諏訪御料人の子)であったが重臣たちはその力を信じていない。 それに反発する勝頼と信春らの重臣との間にできた分裂を突いて、攻めてきた織田軍との戦いが長篠の戦である。 勝頼を諌めて退却させ、殿軍を務めた信春はここに倒れたのである。 馬場信春、山県昌景と並んで武田四天王の一人に内藤昌豊がいる。 父・工藤虎豊を先代の信虎に手打ちにされ放浪していたが、武田信玄の父追放によって呼び戻された昌豊は領地を与えられ 内藤家を継いで武田信玄に忠誠を誓った。 川中島の合戦で騎馬隊大将を務め北条氏康との三増峠の戦いでは補給部隊の大将を務めた。勝頼の時代になり長篠の戦で山県昌景に続いて 内藤昌豊も犬死したところでやっと勝頼は退却に従った。 最後の四天王は高坂昌信、といって他の3人と違って百姓生まれで春日源助といった。 父を早くに亡くした源助は遺産相続に負けてたが、そのときに武田信玄の眼に留まって近習となったのであるが、その理由は男色の相手としてである。 しかし武勇にも優れており、上杉謙信との防衛線である海津城の城大将(お目付け役に小幡虎盛といって甲州流軍学の祖・小幡勘兵衛景憲の祖父である )にしていたというから四天王なのである。 現在、武田信玄に関する武功は、「甲陽軍艦」に記載されていることからその詳細が知られているが、これを書いたのが実は高坂昌信であるから、現代への功績は昌信が一番であろう。 

 武田信玄が冷血(実は人は城、人垣、堀・・・と言っているように決して冷血ではないのであるが。) とされる理由に諏訪氏の滅亡がある。 甲斐国と接する諏訪郡の領主に諏訪頼重がいた。 頼重には武田信玄の妹・禰禰が嫁ぎ、虎王丸を産んでいた。武田信玄はこの諏訪を攻め、油断していた義兄・諏訪頼重はすぐに降伏に追い込まれ、和議が成立したのであるが武田信玄は頼重を切腹させたのである。 頼重がすぐに降伏に追い込まれたのには理由があり、諏訪家の分家である高遠頼継という男が諏訪家を裏切り、武田家の味方をしたのである。 本家に不満を持つ頼継を調略した結果の成果といえるが、このあたりに影響力を持つ諏訪大社については頼継に一切手をつけさせなかったことから、怒った頼継は挙兵して上原城を落とし、諏訪大社を奪い取った。 これに反応した武田信玄は諏訪家の遺児である虎王丸を担いで軍の総大将として頼継を討ち、諏訪大社を含む領地すべてを奪い取るのである。 虎王丸はいつの間にか歴史から消えたが、武田信玄の謀略である可能性は高い。 このとき、頼重の娘で絶世の美女といわれた諏訪御料人は武田信玄の側室になっていた。 諏訪家を継ぐ幼児・虎王丸を餌にされて側室にならざるをえなかった諏訪御料人が悲劇のヒロインになる所以である。   多くの家臣は御料人を側室にすることは反対であったが、軍師・山本勘助が一人異を唱え、諏訪家の血を残して諏訪の民を心服させることが必要と進言したというが、 結果、諏訪家は高遠家とともに滅ぼされている。 理由はもちろん武田信玄と諏訪御料人との間に男子が生まれたからである。名を勝頼といい諏訪家一族として家督を継いでいたが、後に武田家当主となる。 武田信玄次男は生まれつきの盲目で、三男は早世したからである。17歳で勝頼を産み、25歳でなくなった御料人は諏訪湖を望む小坂観音院に墓所があるという。

 大井氏や小笠原氏などを破り、この頃連戦を誇った信玄は一気に信濃攻略を目指して葛尾城へ向かった。 ここは村上義清の本拠地であり上田原で一戦を交えて村上勢を蹴散らしたが、深追いをしすぎて村上勢の待ち伏せにあい打ち破られた。 このとき武田信玄が失ったのが板垣信方という若殿・晴信の頃からの重臣である。 板垣とともに信玄を支えた最長老の重臣に甘利虎泰がいる。 もちろん信虎の寵愛を受けて虎の一字を授かった名であるが、やはり上田原の戦いで村上軍に敗れてなくなった。 このとき信濃の豪族・小笠原氏などが村上軍の味方となったのが武田信玄にとっては痛手であった。  これらの敗戦によって信玄の戦略は大きくかわる。 その戦略に功を奏したのが真田幸隆である。 幸隆は武将・真田幸村の祖父にあたり、信濃国佐久郡の豪族海野氏の一族である。 武田信玄の父・信虎は信濃攻略に際して諏訪頼重に娘を娶らせ姻戚関係をつくり佐久へ侵攻し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は一族を滅ぼした武田信虎は仇であるが、信虎を追放した武田信玄は敵ではない。 山本勘助により武田家へ引き入れられ、謀略に長けた幸隆がさんざん武田信玄を苦しめた村上義清の配下・大須賀久兵衛を調略し、葛尾城に次ぐ一大拠点・砥石城を無血開城させたのである。 これにより徐々に追い詰められた村上義清は、葛尾城までも守ることができなくなり、上杉謙信の下に亡命することとなる。

 さて、武田信玄亡き後嫡流で跡を継ぐものは誰もいなかったのは諏訪勝頼にとっては幸いであった。ところが織田信長との長篠の戦で多くの戦力を失った勝頼はほぼ武田家を滅亡させたといっていい。しかし信長は勝頼にとどめはさしていなかったため、国に帰った勝頼は再起を期すことができたのである。その最大の好機が1578年の御館の乱であった。 上杉謙信亡き後家督相続の遺言を残していなかった上杉家は、謙信の甥・景勝と北条氏政の弟・景虎が分裂し家督争いをし、御館の乱に発展したのである。 武田勝頼は断交していた北条家と同盟を結び、氏政の妹を妻とした。 最初の妻の信長の養女は信勝を産んだ後に死んでいた。 これで武田勝頼と上杉景虎は義兄弟となった。 妹を勝頼の嫁にだしていた北条氏政より、弟の景虎の援護を依頼してきたのである。 上杉は強大ではあるが分裂した今となっては勝頼が援護すれば、それで勝敗は決し、武田、上杉、北条の大同盟ができあがる。 はじめは景虎の援護をするつもりであったが、途中で心変わりし武田勝頼は上杉景勝側の援護を行ったのである。 これに激怒した北条氏政は信長、家康とともに武田家に総攻撃をかけて呆気なく倒したのである。 心変わりの原因は劣勢にたたされていた上杉景勝からの賄賂であったという。 金銀の宝庫であった越後で謙信は多大な金を春日山に残していた。 この資金を抑えた上杉景勝はこの金を使って勝頼を味方に引き入れた。 結果、優勢だった景虎は自刃に追い込まれ、弟を失った北条氏政が織田、徳川と連合を組んで襲ってきたのである。 そのとき勝頼は援護を上杉景勝に求めたが何の援護もなく、追い詰められた勝頼は北条夫人と嫡子・信勝とともに天目山で自害し、1582年武田本家は滅亡したのである。尚、天目山ふもとの景徳院には 勝頼と北条夫人、嫡子・信勝の墓がある。

          
甘利虎泰1498-1548     上田原 村上義清
板垣信方1489-1548(諏訪郡代)上田原 村上義清
山県昌景1529-1575(長篠戦で戦士) 信長軍          
馬場信春1515-1575(長篠戦で戦士)           
内藤昌豊1522-1575(長篠戦で戦士)           
高坂昌信1527-1578(長篠戦で戦士)           
             
武田信虎1494-1574     
  ┣姉(今川義元室)
  ┣姉(穴山梅雪母)
  ┃┗穴山梅雪1541-1582勝頼を裏切り家康につく
  ┃  ┗勝千代1572-1587(武田家再興を目論む)
  ┃小笠原長時1514-1583 府中
  ┃村上義清1501-1573(葛尾城 北信)
  ┃高遠頼継-1552(諏訪氏分家)本家に対して挙兵(伊那郡)
  ┃禰々1528-1543(信玄妹)   
  ┃ ┣虎王丸-1542 高遠頼継討伐大将
  ┃諏訪頼重-1542(諏訪領主 信玄に攻められ)  
  ┃ ┗娘1530-1555(諏訪御料人)
  ┃  ┃北条氏政妹 
  ┃  ┃ ┣ 
  ┃  ┣武田勝頼1546-1582 
  ┃  ┃ ┣信勝1567-1582 
  ┃  ┃信長養女 
  ┣武田信玄1521-1573
  ┃  ┣義信1538-1567(父に謀反自刃)
  ┃  ┃ ┣
  ┃  ┃┏今川義元1519-1560娘
  ┃  ┃┗今川氏真1538-1615
  ┃  ┣黄梅院1543-1569(北条氏政室)
  ┃  ┣海野信親1541-1582(龍宝)
  ┃  ┃ 真田氏-真田幸隆1513-1574⇔信虎・義清
  ┃  ┃ 海野氏-   ┗昌幸
  ┃  ┣信之1543-1553   ┗幸村
  ┃  ┣見性院1545-1622(穴山梅雪室)
  ┃  ┣真理姫1550-1647(木曾義昌室 母:不明)真竜院
  ┃  ┣仁科盛信1557-1582(高遠城主)
  ┃  ┣菊姫1563-1604(上杉景勝室 母:油川夫人)
  ┃  ┣松姫1561-1616(織田信忠と婚約 母:油川夫人)信松尼
  ┃┏三条の方(三条公頼娘)1521-1570
  ┃┣細川晴元室
  ┃┗如春院(顕如室) 
  ┃ 
  ┣武田信繁1525-1561(川中島4戦で戦死)  
  ┃ ┣望月信頼1544-1561 
  ┃ ┣武田信豊1549-1582(母:養周院日藤尼)
  ┃ ┣望月信永1551-1575
  ┃ ┗仁科盛信室
  ┃望月盛昌娘
  ┣武田信廉1532-1582(画才有)
  ┃ ┣信澄1560-1576
  ┃ ┗仁科盛信室
  ┣松尾信是-1571(母:松尾信賢娘) 
  ┣河窪信実-1575 
  ┣一条信龍1539-1582()
  ┃ ┗一条信就-1582
  ┣武田信友-1582(母:内藤氏)
  ┃
大井の方1497-1552大井氏(本拠地:佐久郡)

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