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武田松姫と兄・盛信

2009年04月09日 | 戦国時代

 武田信玄の五女を松姫という。 7歳のときに織田信長の嫡男忠信、当時11歳と婚約が整った。 織田信長は武田信玄を最大の敵として自覚していたから、決して直接戦うことはしなかった。 従ってお互いの子を縁組して同盟を結んだのである。 ところが状況が一変したのは 信長が将軍足利義昭と対立したことから義昭が信玄に対して出兵要請をしたときからである。 信玄は徳川家康の領地である遠江国に侵入し、 信長は家康の同盟軍として援軍を送ったことで武田家と信長家は決裂したのである。 忠信と松姫の縁談が解消されたのは縁組から4年後のことである。 徳川・織田連合軍は三方が原の戦いで武田軍に敗れたのであるが、 この後武田信玄は病に倒れて翌年に亡くなった。 忠信と信玄の両方を失った松姫が独身を守り続けたのは、面会をしたことがなかったのにもかかわらず、既に意識は織田信忠の妻であったからである。 織田家との和解はあるはずもなく周囲は松姫を説得したが決して受け付けなかった。 その松姫に頼もしい味方がいた。 それは信玄の五男で仁科家を継いでいた仁科盛信といって同母(油川氏出身で名は不明)の兄にあたる。 結局松姫は兄の居城である高遠城に引き取られた。 数年が過ぎ、武田信玄亡き後、いよいよ 信長は武田征伐を決意したのであるが、そのときの信長軍大将が忠信であった。 忠信は木曾義昌(信玄三女・真理姫の夫) や穴山梅雪(信玄次女見性院の夫) を裏切らせて味方に引き入れ、武田軍の戦意を喪失させ、 これに 乗じて武田勢は次々と逃亡したから、無力な状態に陥っていた。 しかしその中でも断固として抵抗を見せたのが松姫の兄・仁科盛信であった。 

 武田軍の大将・勝頼に対して盛信は副将格である。 信忠は盛信に対して降伏勧告をしたが盛信はそれを断り戦う姿勢を見せたために信忠は総攻撃を命じたのである。 この高遠城攻めにおいて信忠は大将でありながら自らが城壁をよじのぼって落城のきっかけをつくっている。 本来これは大将のとるべき行動ではない。 しかし城内の松姫を案じての行動であったという。 時間をかければ松姫が自害する可能性が大きいからである。 そして先頭きって城壁を登った信忠は不思議なことに無傷であったという。 人目でわかる鎧兜を身に着けた大将であるから集中攻撃されるはずの信忠が無傷であったのは、仁科盛信の命によって部下に信忠を攻撃させなかったからである。 もちろん松姫が慕う相手であってのことである。しかしこれが自分の敗北を招く結果となった。 婦女子を含めて武田軍は全員玉砕した。 盛信の首は信長の元に送られたが胴体は領民が丁重に葬ったという。  一方、城内には盛信の配慮によって松姫はいなかった。 この後武田勝頼は天目山で自害し武田家は滅亡するのであるが、 松姫は逃げ延びたという。 1582年本能寺の変で信忠は信長とともにこの世を去るのであるが、 その混乱の最中、松姫は信濃をでて武蔵国に落ち着き世の無常を痛感して尼となった。 信松尼である。 戦国の世に生まれてお互いが気持ちを寄せ合って入るが敵味方に分かれて悲運を背負わざるを得ない結末がここにある。 信松尼を慕って武蔵に集まった武田家臣は徳川家康から土地を与えられて八王子千人同心を結成していざというときのために将軍を守ることになる。 因みに幕末に、彼らに縁の若者が結成したのが新撰組であるという。   

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