頼光の四天王といわれた渡辺綱、坂田金時、平井保昌、卜部季猛の墓があると聞き及び、小童寺に行ってみたが渡辺綱以外の墓は見つからなかった。 渡辺綱953-1025は平安時代中期の武将で嵯峨源氏の源融の子孫で、源頼光・四天王の筆頭である。 武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子で、摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住したことから渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名である。 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。 九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。
秋山信友は、武田信玄、武田勝頼の2代に仕えた重臣で、武田二十四将の一人でもある。 1527年、甲斐源氏・秋山信任の息子として、甲斐躑躅ヶ崎館で生まれ1541年に元服する。 1542年の諏訪頼重攻めで初陣すと、わずか5年後の1547年の伊那・福与城攻めで一番乗りの戦功を挙げた上、 敵将の藤沢頼親を捕縛するという手柄により、騎馬50騎の侍大将に任じられた。 さらに木曽福島城攻めで戦功を挙げたこともあり、伊那郡代に抜擢されている。 郡代の職は板垣信形が諏訪郡代をつとめたように老練な武者が任命されるのが普通であるが、秋山信友には 武勇だけではなく知略にも優れていたことを物語っている。 外交面でも業績が残っており、1567年信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でひとりだけ信長と同盟を結ぶ利を説き、諸将を同意させたという。 1568年には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の4女・松姫との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴き、信長は信友を手厚く歓待したと言われている。 1572年、信玄が西上作戦を開始すると、信友は別働隊の大将として兵3000を率いて織田領の東美濃に攻め入るルートをとった。 このときルートを塞いでいたのが信長最前線の岩村城であり、日本一高い(721m)ところに本丸がある強固な城で、城主は女性であった。 おつや という織田信長の叔母にあたる女性で、前城主・遠山景任の未亡人であった。 信友は攻めあぐねた末に、岩村城を陥落させるために、奇想天外な方法をとった。 信友は、信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたのである。 結果、岩村城に在城していた信長の5男・御坊丸(後の織田勝長)は捕らえられて甲斐に送られている。 以後は岩村城主として、東美濃方面の最前線を守備することとなった。 1573年の信玄の死後は勝頼に仕え、1574年に勝頼が東美濃に攻め入る際には、武田氏の東美濃方面(対織田氏)の最前線を戦っていた。 しかし1575年、長篠の戦いで武田軍が惨敗して武田方が劣勢になるに従い岩村城は徐々に孤立し、織田信忠軍の数度にわたる来襲に持ちこたえられず、1575年11月岩村城は包囲されて、信忠の提示した和議に応じて開城する。 しかし直後に、信忠は和議条件を破棄し、信友夫婦は捕らえられて岐阜城下で逆さ磔の極刑に処された。