雄略天皇により葛城円が殺害され葛城首長一族が没落した後に忍海氏(おしぬみ:性格には造一族)が台頭する。氏は681年連の姓を与えられた。天智天皇の宮人・色夫古郎女などに見られる。 色夫古郎女は川島皇子、大江皇子(天武妃となり弓削皇子を生む)を生んだ。 この忍海の地域で最古の古墳は新庄町屋敷山古墳で、ほかには飯豊陵古墳・二塚古墳などがある。 葛城本家が滅びるなかで忍海氏が生き残ったのには忍海郎女つまり飯豊女王の存在が大きいと考えられる。 (またの名を青海郎女) 河内、播磨、丹波、因幡に大きくかかわりを持っていた忍海造氏は(河内忍海部)開化天皇妃・竹野姫を生んだ比古牟須美命を祖とし、因幡の忍海部は開化天皇と葛城垂見宿禰の娘・鸇比売との間にできた建豊波豆羅和気王を祖としていたのである。 つまり忍海部を掌握した忍海造氏は葛城氏の同族以上に葛城垂見宿禰の系統につながるのである。 葛城玉田も葦田宿禰系も亡んだが、葛城垂見宿禰系のみが忍海造氏として生き残った。
襲津彦が活躍した4世紀末から葛城南部に巨大古墳が造られるようになる。その最大は葛城川と曽我川の分水嶺ともなっている室の王墓・宮山古墳である。 ここは孝安天皇・室秋津島宮跡の石碑があり、墳頂の石室は一部開いていて石棺を見ることができる。 ここ宮山古墳は允恭天皇時代の竹内宿禰の墓とも襲津彦の墓とも言われている。 また、北側の新庄地域にはもうひとつの大型古墳群があります。 神塚古墳・屋敷山古墳・飯豊陵古墳である。 これらの古墳群は玉田宿禰系の有力者であったとみてよい。 馬見丘陵周辺の葦田宿禰系の王よりも玉田宿禰系の王一族の構成のほうが階級分化はより多様化していた。
このような背景の中で忍海の地域のつくられた新庄・二塚古墳は前方後円墳で、葛城山の山麓・標高約200メートルの場所に位置している。 墳丘は二段構築で全長は60メートル、後円部の直径は36メートルで高さは10メートル。 後円部の横穴式石室は古くから開口しており、1958年の発掘調査で後方部と西側の造り出し部分にも横穴式石室があることが判明した。 出土品は奈良国立博物館が収蔵している。 出土品などの分析から、築造時期は6世紀中ごろ。
春日大娘皇女
但馬清日子孫┓ 宮主宅媛 ┣橘仲皇女
葛城高額媛 ┣雌鳥皇女 荑媛(葛城蟻臣娘) ┣白香皇女
┣神功皇后170-269┣菟道稚郎子皇子 ┣ 飯豊青皇女440-484┣武列天皇
息長宿禰王┃ ┣矢田皇女 ┣ 億計王(24代仁賢天皇)袁祁命449-498
┣ 15代応神天皇-394(誉田別尊) 黒媛 ┣ 弘計王(23代顕宗天皇)意祀命450-487
1414代仲哀天皇┣ 荒田皇女 ┣ 市辺押磐皇子(忍歯王)-456
┣ 麛坂皇子 ┣ 16代仁徳天皇257-399 ┣ 御馬皇子
┃ ┣ 根鳥皇女┃ ┣ 飯豊青皇女(記紀)
┣ 忍熊皇子┏仲姫命 ┣ 17代履中天皇319-405(阿智使主、平群、物部が舎人)
大中姫 ┣高城入媛 ┣ 住吉仲皇子(安曇連、倭直の海人族が舎人)
品陀真若王┛┣大山守 ┣ 18代反正天皇336-410
応神天皇 ┣ 19代允恭天皇 -453
┏━ 磐之媛命 ┣ 木梨軽皇子━━━━━━━━━━┓
開化天皇┃ 仁徳天皇 ┃長田大郎女 ┃
┣和気王┃ ┃ ┏ ┃┻眉輪王┣ ┃
鸇比売 ┃ ┣ 大草香皇子┣ 20代安康天皇(穴穂皇子)401-456 ┃
垂見宿禰┛ ┃ ┣ 若日下部命┣ 軽大娘皇女━━━━━━━━━━┛
┗□□┓ ┃ 日向髪長媛 ┃ ┣ 境黒彦皇子 和珥童女君
甘美内宿禰 ┃ ┗ ┃━┓ ┣ 春日大娘皇女
武内宿禰 ┣ 葛城葦田宿禰 ┣ 21代雄略天皇(大長谷王)418-479
┣葛城襲津彦-347┣葛城玉田宿禰┃ ┣ 磐城皇子 ┃
┣巨勢小柄宿禰 ┃ ┣葛城円 ┃ ┣ 星川稚宮皇子┃
┣蘇我石川宿禰 ┃ ┗毛媛 ┃ 吉備稚媛 ┣ 22代清寧天皇444-484
┣平群木菟宿禰 ┃吉備臣┃┏━┃━┛ ┣ 稚足姫皇女
┣紀角宿禰 ┃ ┗田狭 ┣ 八釣白彦皇子 ┏葛城韓姫
┗羽田矢代宿禰 ┣黒媛 応神┓┣ 坂合黒彦皇子 葛城円
┗葛城蟻臣 ┣忍坂大中姫
┗荑媛 ┗衣通姫(そとおりひめ)