平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

源家七塔・満願寺

2009年04月30日 | 平安時代

 満願寺には坂田金時、 美女丸・幸寿丸・藤原仲光の墓 だけではなく、源家の七塔といわれる供養等があり、源国房、光国、明国、仲政、国直、行国、国基(頼光-頼国系統)が祀られています。 源国房は源頼光の孫にあたり伊豆守、光国は国房の子で出羽守、明国は頼綱の子で下野守、仲政は同じく頼綱の子で下総守であり馬場氏の祖です。 国直も頼綱の子で山県氏・能勢氏の祖、行国は明国の子で摂津守、 国基は国直の子でやはり能勢氏の祖となっています。 

 

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961(六孫王)     藤原秀郷┓        ┏忠賢-致公-1018
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021 (藤原道長側近 花山天皇退位事件)
棟貞王娘   ┃ ┗忠重 ┃ ┃(四天王:渡辺綱 坂田金時 卜部季武 碓井貞光)
       ┃    ┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍 酒呑童子退治) 
       ┣満実   ┃ ┃ ┣頼弘?(敦明親王判官代 讃岐守) 
       ┣満快   ┃ ┃ ┣頼資1010-1066(土佐配流)  
       ┃┗満国  ┃ ┃ ┣頼実1015-1044(歌人) 六条斎院宣旨(歌人)
       ┃        ┃ ┃ ┣国房?(伊豆守)
       ┃     ┃ ┃ ┃┗光国1063-1148(出羽守)
       ┣満正   ┃ ┃ ┗頼綱1025-1097(藤原師実家司)
       ┣満季   ┃ ┃   ┣明国?(下野守) 国直?(山県氏 能勢氏祖) 
       ┃┃┗致公┃ ┃   ┃(多田氏)    ┗国基?(兵衛太夫蔵人 能勢氏祖) 
       ┣満頼  ┃ ┃   ┃ ┗行国1081-1153(摂津守)
       ┃     ┃ ┃   ┃   ┗頼盛-行綱(鹿ヶ谷謀議 源平合戦)
       ┃     ┃ ┃   ┣仲政?(下総守 武人歌人 馬場氏祖)-源三位頼政
       ┣満重   ┃ ┃   ┣頼子(白河天皇後宮 官子内親王1090-母)
       ┃     ┃ ┃   ┣女子(藤原師通室) 
      橘繁古娘  ┃ ┃   ┣盛子(藤原盛実室) 
             ┃ ┃   ┗女子(源能俊室)
             ┃ ┣頼基(筑後守)           
             ┃ ┣藤原道綱室           
             ┃ ┣歌人相模(養女)           
             ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┗源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)清少納言兄殺害

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古法華寺の石像

2009年04月29日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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古法華寺

2009年04月29日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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美女丸伝説・小童寺

2009年04月28日 | 平安時代

 小童寺は幼名を美女丸といった源賢の創建と伝えられ、境内には藤原仲光、美女丸、幸寿丸の墓があります。 源氏の三代目・源満仲は信仰が篤く、我が子美女丸を僧侶にするため中山寺に預けますが、武家の血を引く美女丸は僧侶になることが不服で、罪なき人に悪行を働き、満仲から美女丸の処刑を命じられた重臣・藤原仲光が、若君に刃を向けることができず悩んでいると、父親の様子を見た息子(幸寿丸15歳)が身代わりになると申し出ます。 後に知った美女丸は改心して僧侶の道を進むことになります。 この寺は、身代わりとなった幸寿丸の菩提を弔うために源賢が建立したものである。 

 

満願寺にある藤原仲光、美女丸、幸寿丸の墓

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頼光四天王・渡辺綱墓碑

2009年04月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 頼光の四天王といわれた渡辺綱、坂田金時、平井保昌、卜部季猛の墓があると聞き及び、小童寺に行ってみたが渡辺綱以外の墓は見つからなかった。 渡辺綱953-1025は平安時代中期の武将で嵯峨源氏の源融の子孫で、源頼光・四天王の筆頭である。 武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子で、摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住したことから渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名である。 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。 九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。 

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武田二十四将・秋山信友

2009年04月27日 | 戦国時代
 秋山信友は、武田信玄、武田勝頼の2代に仕えた重臣で、武田二十四将の一人でもある。 1527年、甲斐源氏・秋山信任の息子として、甲斐躑躅ヶ崎館で生まれ1541年に元服する。 1542年の諏訪頼重攻めで初陣すと、わずか5年後の1547年の伊那・福与城攻めで一番乗りの戦功を挙げた上、 敵将の藤沢頼親を捕縛するという手柄により、騎馬50騎の侍大将に任じられた。 さらに木曽福島城攻めで戦功を挙げたこともあり、伊那郡代に抜擢されている。 郡代の職は板垣信形が諏訪郡代をつとめたように老練な武者が任命されるのが普通であるが、秋山信友には 武勇だけではなく知略にも優れていたことを物語っている。 外交面でも業績が残っており、1567年信玄が織田信長と同盟を結ぼうとしたとき、多くの重臣が反対する中でひとりだけ信長と同盟を結ぶ利を説き、諸将を同意させたという。 1568年には織田信長の嫡男・織田信忠と信玄の4女・松姫との婚約成立に伴い、岐阜へ名代として赴き、信長は信友を手厚く歓待したと言われている。  1572年、信玄が西上作戦を開始すると、信友は別働隊の大将として兵3000を率いて織田領の東美濃に攻め入るルートをとった。 このときルートを塞いでいたのが信長最前線の岩村城であり、日本一高い(721m)ところに本丸がある強固な城で、城主は女性であった。 おつや という織田信長の叔母にあたる女性で、前城主・遠山景任の未亡人であった。 信友は攻めあぐねた末に、岩村城を陥落させるために、奇想天外な方法をとった。 信友は、信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)を正室として迎えたのである。 結果、岩村城に在城していた信長の5男・御坊丸(後の織田勝長)は捕らえられて甲斐に送られている。 以後は岩村城主として、東美濃方面の最前線を守備することとなった。 1573年の信玄の死後は勝頼に仕え、1574年に勝頼が東美濃に攻め入る際には、武田氏の東美濃方面(対織田氏)の最前線を戦っていた。 しかし1575年、長篠の戦いで武田軍が惨敗して武田方が劣勢になるに従い岩村城は徐々に孤立し、織田信忠軍の数度にわたる来襲に持ちこたえられず、1575年11月岩村城は包囲されて、信忠の提示した和議に応じて開城する。 しかし直後に、信忠は和議条件を破棄し、信友夫婦は捕らえられて岐阜城下で逆さ磔の極刑に処された。 
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壺井にて

2009年04月27日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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幸村の祖父・真田幸隆

2009年04月26日 | 戦国時代

 真田幸隆は、戦国史上最も著名な武将の一人である真田幸村の祖父にあたる。 真田氏は信濃国佐久郡の豪族・海野氏の一族で武田信玄の父・信虎とは敵対していた。 武田信虎は諏訪頼重に娘を娶らせて姻戚関係をつくり佐久へ侵入し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は城を失って上野国の上杉憲政の下に亡命していたが、武田家が信玄の時代となると、山本勘助の進言により調略に長けた真田幸隆は武田陣営に引き入れられた。 信玄は幸隆に佐久郡の領地を与え村上義清攻略を狙っていた。 信玄が義清と戦った上田原の合戦で板垣、甘利を失い、その後砥石城攻めにも失敗し重臣横田高松を失い 大敗を喫したことで幸隆に出番が廻ってきたのである。 若かりし信玄の二度に渡る汚名を返上したのが真田幸隆なのである。  幸隆は砥石崩れの翌年に砥石城を奪取した。 武田本軍が一ヶ月包囲しても落ちなかった城が幸隆の手によってあっさりと落ちたのである。  幸隆は砥石城を義清から預かっていた大須賀久兵衛を篭絡して自ら開城させ、調略に成功した。 まさに信玄が軍旗に掲げた孫氏の軍略により、 村上義清の本城・葛尾城に次ぐ一大拠点を落としたのである。 武田家には金山採掘による裕福な資金力があったのに対して、村上家には何ら資金面での援助はなかったようで、真田幸隆はそこをついた。 これ以降村上義清は徐々に追い詰められていくが、信玄は家臣から謀略を学び、名将への道を進むこととなる。

 また、幸隆の息子も信玄の側近として仕えることになる。 真田信綱、昌輝、昌幸である。長男の信綱は第4回川中島合戦にて妻女山奇襲隊に加わり、1569年北条氏康と戦った三増峠の戦いでは殿軍をつとめている。 奇襲隊にしても殿軍にしても並みの武将ではつとまらない大役である。 次男の昌輝は若手エリート集団の百足衆に抜擢された。 百足衆とは矢弾が飛び交う中を大将の重要な指令を味方の陣営に伝える伝令集団 で、昌輝は信玄の両眼として評価されている。 このふたりの死は長篠の戦でやってきたために、真田家は三男昌幸により継がれる。 昌幸は武田家の有力家臣・武藤家の養子となり武藤喜兵衛とよばれていたが、長篠の戦で兄を失ったために真田の姓に戻り、武田勝頼に仕えた。 勝頼が天目山にて滅ぶと、昌幸は織田家関東総督である滝川一益とよしみを通じる。 信長が本能寺の変で死に、滝川一益が北条氏政の大軍に敗北すると上杉景勝についた。 徳川家康は昌幸と北条家を和合させようとしたが北条家に有利な条件であったために、昌幸は上杉についたのである。 面目を失った家康は北条家と同盟を結び、真田昌幸の本城・信州上田城に攻めてきたとき、昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したから、一気に昌幸の武勇は上がった。 後に、秀吉の命により昌幸と家康は和合し、 昌幸の長男・信幸は、家康の重臣本多忠勝の娘を娶っている。 また、次男信繁は秀吉の腹心大谷吉継の娘を妻とした。  関が原の戦いでは家康嫌いの昌幸、信幸は石田三成の西軍に味方し、信繁は家康の東軍に味方した。 昌幸は関が原の合戦に出陣する家康の息子・徳川秀忠の大軍を信州上田城で釘付けにして合戦に参加させなかった男であり、信繁は 名将真田幸村のことである。 

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2009年04月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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酒呑童子退治・源頼光

2009年04月26日 | 平安時代

 源頼光は時の権力者・藤原道長の重臣で源氏の棟梁である。 源頼光948-1021の父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊娘で、 妻には伊予守藤原元平娘などがいる。 子には頼国、頼家、頼基、永寿、頼昭などがあり、満仲の長子として清和源氏の三代目を相続して摂津国多田源氏を束ね、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。 異母弟には大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいる。  同時代の中級貴族と同じく、20前後で出仕し、満仲と同じく摂関政治を行っていた藤原氏に臣従して官職を得て、財力を蓄えていたと考えられて、986年頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に東宮権大進に任じられる。 東宮大進時代には朝廷の儀礼や典礼関係の年中行事に記録が見られ、藤原道長の主催した競馬などに参加している。 同時期には、大江匡衡が隣国の尾張守となり、両者は赴任するにあたって書状を交わしており、また、匡衡妻の赤染衛門は頼光を詠んだ和歌を残しているなど親交があったと思われる。 左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許された後は、受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。 道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

 源頼光の武勇を物語るものに酒呑童子、土蜘蛛退治などがあり、渡辺綱、坂田金時などの四天王寺と呼ばれる家臣とともに活躍したのである。酒呑童子の一味による被害があまりにも大きく、源頼光が鬼退治に行くこととなり、配下の頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)や友人の藤原保昌ら、総勢五十数名とともに大江山に向かった。山伏の姿になった一行はさまざまな人々の助けを得ながら、一晩の宿を求める振りをして酒呑童子の本拠にはいることに成功した。その晩は酒盛り上がり、深夜、酔って動かなくなった酒呑童子の一味の鬼たちを頼光らは残らず退治した。ただし、茨木童子(酒呑童子の一番の家来)のみは渡辺綱と戦っていたところ、酒呑童子の討たれるのを見てこれはかなわないと退却し、唯一逃げるのに成功したという。

 今回、源頼光の墓を訪れる目的で多田神社にいきましたが、霊廟には誰も入ることができないということで残念な結果となりました。 すぐ近くに、紫陽花で有名という頼光寺へいったのですが、ここには頼光謂れの墓などはありませんでした。

 

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小野妹子後裔墓

2009年04月26日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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源満仲・多田神社

2009年04月25日 | 平安時代

 兵庫県川西市は清和源氏武士団発祥の地であり、多田神社は源満仲によって970年に天台宗寺院として建立される。 鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であったが、神仏分離の際に神社となった。 その際、南大門にあった金剛力士像が満願寺に移されるなどした。 多田神社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。 ただし、霊廟には誰一人として入ることはできないということでした。 源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、多田神社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を多田神社に分骨している。 また、現在の社殿は、寛文年間に徳川家綱が再建したものであり、それ以前は1577年の織田信澄の手による焼失のため荒廃していたという。  四月には、源満仲や源頼光、源頼信、源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前や静御前らの女性は公募で選ばれた美女たちが扮し、清和源氏の武士がほぼ全員登場するところが特徴です。 

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961(六孫王)     藤原秀郷┓        ┏忠賢-致公-1018
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021 (藤原道長側近 花山天皇退位事件)
棟貞王娘   ┃ ┗忠重 ┃ ┃(四天王:渡辺綱 坂田金時 卜部季武 碓井貞光)
       ┃    ┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍 酒呑童子退治) 
       ┣満実   ┃ ┃ ┣頼弘?(敦明親王判官代 讃岐守) 
       ┣満快   ┃ ┃ ┣頼資1010-1066(土佐配流)  
       ┃┗満国  ┃ ┃ ┣頼実1015-1044(歌人) 六条斎院宣旨(歌人)
       ┃        ┃ ┃ ┣国房?(伊豆守)
       ┃     ┃ ┃ ┃┗光国1063-1148(出羽守)
       ┣満正   ┃ ┃ ┗頼綱1025-1097(藤原師実家司)
       ┣満季   ┃ ┃   ┣明国?(下野守) 国直?(山県氏 能勢氏祖) 
       ┃┃┗致公┃ ┃   ┃(多田氏)    ┗国基?(兵衛太夫蔵人 能勢氏祖) 
       ┣満頼  ┃ ┃   ┃ ┗行国1081-1153(摂津守)
       ┃     ┃ ┃   ┃   ┗頼盛-行綱(鹿ヶ谷謀議 源平合戦)
       ┃     ┃ ┃   ┣仲政?(下総守 武人歌人 馬場氏祖)-源三位頼政
       ┣満重   ┃ ┃   ┣頼子(白河天皇後宮 官子内親王1090-母)
       ┃     ┃ ┃   ┣女子(藤原師通室) 
      橘繁古娘  ┃ ┃   ┣盛子(藤原盛実室) 
             ┃ ┃   ┗女子(源能俊室)
             ┃ ┣頼基(筑後守)           
             ┃ ┣藤原道綱室           
             ┃ ┣歌人相模(養女)           
             ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)清少納言兄殺害
 ┏━━━━━━━━━━┛ ┣頼房?(加賀守)
 ┣頼平?(武蔵守)     ┣頼成  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┣頼範?(三条院蔵人)   ┣頼遠1007-1062(陸奥石川氏祖)
 ┃ ┣頼綱        ┗頼基(筑後守)
 ┃ ┣頼基
 ┃ ┗頼弘
 ┃ 
 ┣孝道-1010(養子 一条朝文人 母:源経基娘) 
 ┃ ┗□━瑠璃女御(敦明親王寵妃)
 ┃ 
 ┣源賢-1017(幼名 美女丸 多田法眼) 
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃┃(1062前九年役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃┃            ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃┣娘           ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃平宗基娘         ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┃       ┣義宗?
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┃┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義光1045-1127┃┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃┃┗甲斐源氏  ┃┣義信     義平
 ┃ ┃┃ ┗武田氏  ┃┗義俊      ┣
 ┃ ┃平直方娘    ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┣義忠   ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    ┃1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面)
            ┣義時?
            ┃┣義基(石川源氏)
            ┃┃┗義兼
           ┃┣義広(紺戸氏)
           ┃┗義資(二条氏)
           ┗義隆-1159
            ┗頼隆1159-?(森氏、毛利氏祖)

JR川西池田駅前にある源満仲公像

 

多田神社には源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る霊廟がありますが中に入ることは誰もできないということでした。

 

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大僧正隆光墓

2009年04月24日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 通法寺跡の近く、源頼信の墓の傍に通法寺歴代の僧の墓が並んでいるが、その一角に隆光大僧正の墓がある。  隆光大僧正は1649年現在の奈良市二条町で生まれ、長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設し、5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。 元禄年間、通法寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力し、桂昌院の援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの大仏殿再建に尽力した。  悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は隆光大僧正の発案だとされており、綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。 

 

通法寺代々住職の墓

 

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當麻寺・浄土庭園

2009年04月23日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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當麻寺 西塔と東塔

2009年04月22日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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