文室浄三693-770は、奈良時代の皇親で後に臣籍降下することによって政治的な圧力から逃れて自己の意思を全うした人物である。 父は天武天皇の皇子・長親王で、初名は智努王といい、兄弟に大市王等がいた。 717年従四位下に叙されると、造宮卿などを歴任し、平城京の造営を手がけたといわれる。 752年文室真人の姓を賜って臣籍に下り、761年頃浄三と名を改めた。 これは唐招提寺に帰依した鑑真より戒律を授かったためである。 757年参議となり、中納言を経て762年御史大夫(大納言)に昇任すると、764年には職を辞している。 770年の称徳天皇の崩御後、吉備真備に次期天皇に推されたが、浄三はこれを辞退し、 その約2ヵ月後に亡くなった。 藤原仲麻呂による権勢を批判した鑑真とともに唐招提寺の建立に尽力した。
文室浄三は、聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上とともに唐招提寺の建立に尽力します。 鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後の758年、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになります。 聖武太上天皇はすでに崩御していたが、光明皇太后と孝謙天皇の鑑真への帰依は深く、当時権力を振るっていた藤原仲麻呂も鑑真を歓迎していた。 やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されます。 平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となります。
唐招提寺の 「金堂」は ”天平の甍” として知られ奈良時代に建立された金堂としての唯一の遺構です。 「過去」の「薬師如来立像」、「現在」の「盧舎邦仏坐像」、「未来」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」があり、 過去、現在、未来の「三世仏」といわれているが、一般的には盧舎邦如来の脇侍に薬師如来、千手観音が立つことはなく、 鑑真と文室浄三の思惑が反映されている。 上記の三尊と「講堂」の本尊「弥勒如来坐像」とで、「東」の「薬師如来立像」、「南」の「盧舎邦仏坐像」、「西」の「千手観音立像(阿弥陀如来像)」、「北」の「弥勒如来坐像」となり、これが東西南北の「四方仏」となっている。 金堂中央の本尊・盧舎邦仏坐像(3.05m)は、「脱活乾漆坐像」としては最大のもので、膨大な漆を使用していることがわかっています。 二重円光の光背の高さは515cmにもおよび、864体の小さな釈迦像の化仏を付けた数十の小光背により構成されている。 結跏趺坐し、右手は上に上げ、左手は掌を上にして膝上に置いている。(施無畏与願印と違って親指と人差し指で輪を作る来迎印) 写真は小学館「古寺を巡る」より
金堂 三尊像 盧舎邦仏坐像
金堂向かって左の千手観音立像(5.4m)は、「木心乾漆造」では最古最大の像で、右側に位置する薬師如来立像(3..4m)とともに「木心乾漆造」です。 ただし 木心乾漆造の漆の使用量は盧舎邦仏坐像に比べて極端に少なく、当時の鑑真、文室浄三の権勢の衰えと仏像建造の資金との関わりをうかがうことができる。 頭上に十面を乗せ、42本の大脇手を含めて953本の脇手を付けている。 もともとは1000本を備えていたと思われ、正しくは千手千眼観自在菩薩といい、掌それぞれに一眼が墨書きされている。 光背は唐草や火焔をあしらった円形の頭光で、中央には八葉蓮華がある装飾性豊かなものである。 講堂の中央須弥壇に座す弥勒如来は弥勒菩薩が釈迦に次いで如来になったもので未来仏と云われる。 左の掌は下にして膝のうえに乗せる蝕地印を結び、釈迦が悟りを開いた状態を示す珍しいものである。
金堂・千手観音立像 講堂・弥勒如来坐像
竹中半兵衛重治は、1544年美濃斎藤氏の家臣・竹中重元の子として生まれ父の死去により家督を継ぎ、斎藤義龍に仕えた後、斎藤龍興に仕える。 織田信長による美濃侵攻に対して義龍死去後の龍興時代には、家臣団に動揺が走り攻防が困難となっていたが、重治の伏兵戦術で織田勢を破ったとされている。 主君の龍興は政務を顧みず、重治や美濃三人衆を政務から遠ざけていた。 このため1564年、弟の重矩や舅の安藤守就と共に龍興の稲葉山城を奪取した。 織田信長が重治に稲葉山城を明け渡すように要求したが重治は拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還すると斎藤家を去り、浅井長政に仕えた。 1567年信長の侵攻により美濃斎藤氏が滅亡すると信長は、重治を家臣として登用したいと考え、木下藤吉郎秀吉に織田家に仕えるように誘わせた。 重治はこのとき、秀吉の才能を見抜いたとされており、信長に仕えることは拒絶したが、秀吉の家臣となることは了承したとされる。 秀吉が織田家の中国遠征総司令官に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。 1578年宇喜多氏の備前八幡山城を調略によって落城させ、信長に賞賛された。 同年、信長に対して謀反を起こした荒木村重に対して、秀吉幕僚の黒田孝高官兵衛が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、捕縛されたため、信長は孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じたが、重治は松寿丸を匿った逸話がある。 1579年、播磨三木城の包囲中に病に倒れ重治は戦場で死にたいと秀吉に懇願し死去したという。 本営のあった山に続いたぶどう畑に白い練り塀に囲まれて、半兵衛の墓がある。
村上源氏庶流・北畠親房1293-1354は万里小路藤房、吉田定房、と共に後三房と称せられ、後醍醐の皇子・世良親王の養育を託されるなど後醍醐の信任厚く、これまで北畠氏には許されていなかった源氏長者に任命されるが、1330年世良親王急死の責任を感じて38歳の若さで出家しています。 しかし後醍醐天皇の建武の新政がはじまると再び政治の舞台に登場した。 第97代後村上天皇の中宮・源顕子こと新陽明門院の父にあたります。 室生寺を訪れたときに親房の墓を見つけましたので紹介します。
1333年、後醍醐天皇の第8皇子・義良親王(母は阿野廉子(新待賢門院)で後の後村上天皇) は、後に中宮となる顕子の父北畠親房と兄顕家に奉じられて東北鎮定のため奥州へ下向し、翌年の建武元年(1334年)、親王宣下します。 建武新政が瓦解した後、延元三年(1338)秋、東国経営のため再び親房ほかと共に船団を組んで出航したが、暴風に遭って義良親王の船は伊勢に漂着、その後吉野に帰還します。 同四年(1339)三月、父帝の皇太子となると、 同年八月十五日、践祚。時に十二歳でした。 正平三年(1348)正月、高師直らに吉野行宮を攻められて賀名生(あのう)に遷居。同六年、足利氏の内訌により尊氏が南朝に和議を申し入れると、翌年、南朝軍は京都を占拠。 後村上天皇は男山(八幡山)に出陣して光厳院・光明院・崇光院を捕えたが、入京を目前にして事態は急変、足利軍に京都を奪回され、結局賀名生に還幸となります。 同九年十月、河内天野山に遷幸し、金剛寺を行宮とする。 同十四年十二月、天野行宮を侵され、観心寺(大阪府河内長野市寺元)に遷御。 翌年九月、さらに摂津住吉の行宮に遷った。正平二十三年(1368)三月十一日、住吉行宮にて41歳で崩御し、河内観心寺に葬られている。陵墓は同寺境内の檜尾陵。
新陽明門院・笠間山陵
室町幕府が設立されたのは1336年、建武式目という幕府の基本法が発布されたときである。この時楠木正成は湊川の戦いで戦死し、尊氏は京を奪回して後醍醐天皇を軟禁し神器をとりあげた。実はこの時幕府の将軍の御所は室町にあったわけではなく、三大将軍義満の時に室町御所ができたのである。 幕府は本来東国武士団の政権であり足利氏も東国であったが、幕府軍の中核が畿内の武士であったために京に幕府が置かれた。 建武式目は鎌倉幕府の全盛体制を理想とし、保守的なものであったため、足利直義の政治体制に激しい不満を示した人々がいた。婆沙羅大名がその中核で、高師直という足利家の執事、名門京極氏出身の佐々木導誉、土岐頼遠が代表される。 尊氏の弟で政権を握っていた直義はこれらの横暴に対して土岐頼遠を死罪にしたが、尊氏が寵愛する高師直は抑制できないでいた。天皇家、公家、寺社の訴えに対して直義は高一族を抹殺する決意をした。1349年直義は高師直を評定所に呼び出し暗殺を実行しようとしたが、これは失敗する。師直の弟・師泰はこれを聞いて大軍勢を率いて京に向かうと直義が脱げ込んだ御所を包囲した。要求は直義の執事・上杉重能、畠山直宗の引渡しである。この時尊氏が仲裁にはいり事件は一応解決するが、越前に流罪になった上杉重能、畠山直宗は契約違反により流罪先で殺害され、直義も出家に追い込まれた。義直の養子で 越前局を母に持ち尊氏を実父とする足利直冬も地位を追われて九州に逃亡していたが、勢力を中国へも広げていた。尊氏は高師泰軍団を送り込んだが手ごわく、自ら討とうとする。これに激怒したのは直冬を実子同様に寵愛していた直義である。当時壊滅状態であった南朝側の後村上天皇を見方にし南朝を完全復活させ、これを後ろ盾として反尊氏派・文治派を集めて、若い足利義詮を攻め、京を陥落する。弟・直義との直接対決を避けた尊氏は和議を申し立て高師直、師泰兄弟を出家させたが、その途中で暗殺されている。 今度は上杉重能の養子となっていた能憲の手にかかったのである。
尊氏は近江の佐々木導誉、義詮は播磨の赤松則祐と連携して東西から直義を挟み撃ちにして討とうとしたが、察知した直義は京を脱出して北陸で兵を集めると鎌倉に向かった。尊氏はなんとしても武家政権発祥の鎌倉を陥落させるわけにはいかない。京を留守にするにあたって直義が復活させた南朝側に攻められるわけにもいかない。 そこで尊氏は南朝側に無条件降伏することによって支持を仰ぎ、後村上天皇から直義追討の宣旨を受けた後、鎌倉を攻め直義を降伏に追い込み毒殺するが、この時北畠親房の画策により北朝側の天皇・上皇・皇太子は息を吹き返した南朝側に捕われ、留守番をしていた義詮は京を逃げ出したことによって京は再び南朝側の支配下となった。1352年、北朝の光厳・光明・崇光上皇と直仁皇太子は捕虜として幽閉された。 ところが近江で勢力を立て直した義詮は佐々木・土岐氏の支援を得て再び京を攻め、後村上天皇・北畠親房は敗走し、短い南朝の時代は終わり二度と復権することはなかった。
(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
藤原立子(東一条院) ┃
修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇 ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181 ┣84順徳天皇 ┃
┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239 平棟子 ┃
┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王 ┃
┃ ┃ ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃ ┣88後嵯峨天皇 ┃
┃ ┃ ┃ ┣87四条天皇 ┃源通子 ┃┣89後深草天皇┛
┃ ┃ ┃ 藤原竴子 ┃ ┃┣90亀山天皇━┓
┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 ┃西園寺姞子 ┃
┃ ┃持明院基家┛ ┃ ┃
┃藤原殖子(七条院) ┣宗尊親王 ┃
┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185) 平棟子 ┃
徳子1155-1214(建礼門院) ┃
┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ 不明
┃ 姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子 藤原勝子 ┣世泰親王
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇
1245-1272 ┃堀河(源)基子 ┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) 藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王 ┣憲子内親王(新宣陽門院)(1343?-1391)
┃ ┃ 北畠親房 ┣坊雲
┃ ┃ ┣源顕子-1359
┃ ┃ ┣顕家1318-1338
┃ ┃ ┗源能1326-1383
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
藤原忠子 ┣懽子内親王 ┃┃┣護良親王1308-1335
西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┣西園寺禧子(礼成門院) ┃┣尊良親王
┣左大臣公衡 ┃┣宗良親王
┣太政大臣兼季 ┃二条為子
┣西園寺金章子 藤原実俊┣世良親王
┗西園寺瑛子 ┃┣静尊法親王
┗遊義院一条局
東の野にかぎろひの立つ見えてかえり見すれば月かたぶきぬ。原文では「東野炎立所見而反見為月西渡」となるようです。 柿本人麻呂が、軽皇子(後の文武天皇)に随行して安騎野に宿った時に作ったとされる歌である。 「荒道」を往き、亡き父・草壁皇子と遊猟した想い出の地を訪れた皇子(軽皇子)は、懐かしさにこころ騒ぎ、寝つかれないままに朝を迎える。 「阿騎の野に宿る旅人打ち靡き寝も寝らめやも古思うに」 「ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し」 「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」 「日並の皇子の尊の馬並めて御猟立たしし時は来向かう」 詠われた軽皇子の安騎野遊猟は父皇子の死からおよそ四年後のことのようである。 ここで詠まれた安騎野というのは奈良・大宇陀町にあり、 現在では柿本人麻呂公園として整備され、すぐ北側にはかぎろひの丘がある。 もちろん当時に柿本人麻呂が軽皇子とともに見たという「かぎろひ」 に興味を持って是非見てみたいと思いこの公園にいった。 「かぎろひ」とは、日の出の二時間ほど前に見られる深紅とブルーで彩られた状態をいうらしいが、 実際の日の出が六時四十分すぎに対して、四時ごろから見られた最初の微光が観察されたのが平成8年で、過去をさかのぼっても数度しか見ることはできないらしい。
女色夫古娘 泊瀬部皇女 姪娘(蘇我倉山田石川麻呂・娘)
┃ ┃ ┣ 御名部皇女
┣ 川島皇子657-691 ┣ 阿閉皇女(43代元明天皇)661-722
天智天皇(中大兄皇子) 626-671 ┃
┣*1 ┣大友皇子39代弘文天皇648- ┣氷高皇女(44代元正天皇)
┣*2 宅子娘 ┃ ┣━━━━━━━吉備皇女683-729
遠智娘 額田王 ┣葛野王669-705┃ 宮子682-754 ┃
宍戸臣大麻呂 ┣━十市皇女652-678 ┓ ┃ ┣首皇子(聖武天皇)701-756┃
┣ 泊瀬部女 ┃*1大田皇女-667 ┃ ┣軽皇子(42代文武天皇)683-707┃
┣ 忍壁皇子656-705┃┣ 大津皇子662-689 ┃ ┃ ┣高円朝臣広成701- ┃
┣ 磯城皇子 ┃┣ 大伯皇女661-701斎王┃ ┃ ┣高円朝臣広世 ┃
40代 天武天皇 631-686 ┃ ┃石川朝臣刀子娘 ┃
┣ 長皇子 ┃ ┃┃ ┣ 草壁皇子662-689 ┃ ┛ ┏━━━━━━━━━━━━┛
┣弓削皇子┃ ┃┃ *2持統天皇41代645-703 ┃ ┣膳夫王-729
大江皇女 ┃ ┃┃ ┃ ┣葛木王
氷上娘 ┃┣━━ 高市皇子654-696┛ ┣鉤取王
┃胸形君徳善女尼子娘┣ 長屋王676-729
┃ ┣河内女王┣安宿王(奈良麻呂乱で流罪高階真人)
┃天智天皇┓ ┣ 鈴鹿王 ┣山背王-763
┃ 御名部皇女(元明天皇・姉)658┣黄文王
┣ 新田部皇子-735 長娥子(不比等娘,宮子妹)
五百重娘 ┣ 塩焼王-764
(鎌足娘) ┗ 道祖王-757(ふなど)聖武後皇太子(朝廷機密漏洩事件)
室生寺の鎧坂をあがった左手には弥勒堂があり、本尊は弥勒菩薩立像。 内陣の須弥壇には弥勒菩薩が安置され、外陣厨子内には釈迦如来坐像が祀られている。 弥勒菩薩立像は 榧材による一木造りで山内で最も古く、修円の念持仏と云われている。 国宝・釈迦如来坐像の頭部には 螺髪がなく肉髻(にっけい:頭部の盛り上がり)のみをあらわしている。 肉髻は如来の証で、悟りを開く能力(智慧)が詰まってできたと解釈され、修行を積み悟りを開いた者の証である。 粗末な衣を意味する袈裟は翻波式衣文で、袖の渦門も平安初期彫刻の特徴である。 袈裟の纏い方は右肩にも衣を纏う偏袒右肩というもので、変則的ではあるが多数を占める。 右手は施無畏印、左手は与願印という一般的な印の結び方で、半跏趺坐という座り方をとる。 これは一方の足を組み重ねるもので、両方の足を組み重ねるものを結跏趺坐といい、瞑想するときの理想的な座り方とされている。
弥勒菩薩立像 釈迦如来坐像 (写真:小学館古寺を巡るより抜粋)
奥深い山と渓谷に囲まれた室生の地は、太古の火山活動によって形成された室生火山帯の中心部で、こうした幽邃な場所は古くから神々の坐ます聖地として仰がれていた。やがて奈良時代の末期、この聖なる地で皇太子山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の高僧賢環など5人の高徳な僧によって行われ、これに卓効があったことから、勅使により国家のために創建されたのが室生寺である。だが建立の実務に当たったのは、賢環の高弟修円であった。修円は最澄や空海と並んで当時の仏教界を指導する高名な学僧であつた。以来室生寺は、山林修行の道場として、また法相・真言・天台など、各宗兼学の寺院として独特仏教文化を形成するとともに、平安前期を中心とした数多くの優れた仏教美術を継承する一方、清冽な渓流は竜神の信仰を生み、雨乞いの祈願も度々行われてきた。その他厳しく女人を禁制してきた高野山に対し、女人の済度をもはかる真言道場として女性の参詣を許したことから『女人高野』として親しまれている。
鎧坂 金堂
金堂の須弥壇上には五躯の仏像が立ち並んでいる。 下記写真(室生寺HPより)の向かって右から、地蔵菩薩・薬師如来・釈迦如来・文殊菩薩・十一面観音である。 中尊は寺では釈迦如来となっているが、鎌倉時代の記録で薬師如来であることが正しい。 この釈迦如来立像は薬壷を持っていない。 一般に平安時代以降に作られた薬師如来は薬壷を持つが、法隆寺の薬師如来(飛鳥時代)や薬師寺の薬師如来(白鳳時代)や唐招提寺の薬師如来(奈良時代)は薬壷を持たない。 室生寺のこの薬師如来は平安初期に造立された古式の薬師如来で榧の一木像である。 本来は薬師如来として造立されたもので、朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様と称している。 光背には七仏薬師や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。「延暦寺薬師如来像」の「朱衣金体」の影響を受けたといわれている。 「板光背」は平らな板に見事な絵模様が彩画されており七仏薬師も描かれており、 木の特徴を見極めた漣波式の流麗な衣文、精緻に彩画された大きな絢爛、華麗な板光背などの様式を総称して、室生寺様といわれ室生寺独特のものである。 手の結びは一般的な、右手が「施無畏印」、左手が「与願印」である。 また、須弥壇上の薬師如来の眷属である十二神将像は、鎌倉時代に作られた像で運慶作という。 現在は十躯が並び、二躯は奈良国立博物館に寄託している。
「十一面観音像」 も本尊と同じく榧の一木造で、 慈愛溢れる国宝の菩薩像である。 「華瓶」は注ぎ口が付いた珍しいもので親指と中指で艶かしい持ち方である。 腹部に二条の線があるのは本尊と一緒で、大きな輪宝は妊婦の安産祈願を表しているともいわれている 。 仏像の細部は経典の教えを視覚的に伝える役割を持っており、それを端的に示す仏像のひとつが十一面観音菩薩である。十一面観音の頭頂には仏面があり、これは悟りの象徴で阿弥陀如来とされる。 周囲には慈悲を表す慈悲相や怒りを表す瞋怒相や牙を剥く狗牙上出相が各3面、大笑いをする暴悪大笑相が1面、合計10の面が配される。 十一面観音は衆生を救う仏であることを仏面であらわし救いや懲らしめの意味を諸種の面で表している。
十一面観音菩薩(雑誌サライ2009 6/4より抜粋)
奈良大宇陀には織田家松山藩の菩提寺・徳源寺がある。 織田信長の次男・信雄の戒名が徳源院であることから命名され、信雄の五男・織田高長(宇陀松山2代藩主で出雲守)が父の菩提のために創建したという。 実は奈良・大宇陀には柿本人麻呂に縁のある 「かぎろひの丘」があり、そこを訪ねたときに偶然見つけたのが徳源院で、しかも織田家墓所があるということで参ってきました。 徳源寺縁起によると本尊は釈迦如来坐像で、千手観音像、開山像、円照禅師像なども納められています。 この徳源寺、驚いたことに普通に家族が暮らしており、庶民的な匂いのするところで御座いました。
土田弥平次
┣
生駒吉乃1528-1566
┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難
┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
┃┣森可隆1552-1570
┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ┣- 督姫(家康次女)
┃┃┏━━娘 ┣池田忠雄
┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
┃┃┣━━池田元助1559-1584
┃┃┃
┃┃┃ 片桐半右衛門娘
┃┃┃ ┣-
┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
┃┃┃ ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
┃┃┃加藤嘉明娘┣長重
┃┃┃ ┣長久1645-1697
┃┃┃ 妾 ┣長喬1676-1723
┃┃┃ 香昌院 ┣長處1696-1754
┃┃┃ 峯松院 ┣長仍1725-1796
┃┃┃ 妾 ┗長玄1741-1814
┃┃┃ ┗-
┃┃┃
┃┃┣━━若御前 菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
┃┃┃日秀┣- ┣
┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
┃┃┃三好吉房1522-1600
┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ↑
┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
┃┗森忠政1570-1634
┗━━━━━━┓ ↓
┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)
┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃┃富田氏 ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
┃ ┃久保三右衛門娘 津川氏
┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)
┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
織田信秀 ┣徳姫(見星院)1559-1636
1510-1551 ┃ ┣登久姫 毛利輝元娘
┃ ┃ ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-
┃ ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死
┃ ┃ ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
┗織 田 信 長1534-1582
織田松山藩4代の墓石 家臣と歴代住職の墓碑