片桐池田家は、姫路城主・池田輝政の弟を祖として始まり、ここ茶臼山に七代目までの墓所が立派に残っていました。 周匝領主・片桐池田家は備前岡山藩の家老家として今の岡山県赤磐市周匝(すさい)に陣屋を設け、旧赤坂郡を主な領地としていた片桐家 (片桐池田家、または周匝池田家とも呼ばれる) は、織田信長の家臣であった池田恒興の四男池田長政を祖とし、その子である池田長明の時代に備前国赤坂郡周匝の地に入ります。池田長政は 八歳で池田家家老片桐半右衛門の養子となり、片桐の娘を室としますが、子は早世し、後室の伊予松山城主 加藤嘉明(15万石)の娘が長明を産みます。
片桐半右衛門は、戦国時代の末、織田信長の時代に池田恒興の家老として岐阜県に城を預かっていました。 もともと信長の家臣であった片桐半右衛門を、1560年の桶狭間の合戦で手柄を上げ侍大将になった池田恒興が信長に願い出て、香川清兵衛(後の伊木)、土倉四郎兵衛とともに家老に迎えたことが片桐池田家の興りとなっています。 1582年に本能寺の変が起こり、秀吉の天下がまだ固まらないまま翌天正十一年(1583)には池田恒興が大垣城に入ったときに、片桐半右衛門は池田恒興の二男である池田輝政に付けられて大垣城の出城である池尻城を預かります。 その翌年 1584年には、秀吉方に付いて家康の軍と対峙していた池田恒興が長男の之助と共に長久手の戦いで討死し、替わって二男の池田輝政が池田家を継いで大垣城主に入り、1585年には岐阜城主となります。
土田弥平次
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生駒吉乃1528-1566
┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難
┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
┃┣森可隆1552-1570
┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃┃ ┣- 督姫(家康次女)
┃┃┏━━娘 ┣池田忠雄
┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
┃┃┣━━池田元助1559-1584
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┃┃┃ 片桐半右衛門娘
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┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
┃┃┃ ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
┃┃┃加藤嘉明娘┣長重
┃┃┃ ┣長久1645-1697
┃┃┃ 妾 ┣長喬1676-1723
┃┃┃ 香昌院 ┣長處1696-1754
┃┃┃ 峯松院 ┣長仍1725-1796
┃┃┃ 妾 ┗長玄1741-1814
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┃┃┣━━若御前 菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
┃┃┃日秀┣- ┣
┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
┃┃┃三好吉房1522-1600
┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
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┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
┃┗森忠政1570-1634
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┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退)
┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)
┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
織田信秀 ┣徳姫(見星院)1559-1636
1510-1551 ┃ ┣登久姫 毛利輝元娘
┃ ┃ ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-
┃ ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死
┃ ┃ ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
┗織 田 信 長1534-1582