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夜店桜

2009年04月08日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

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陰陽師・判兵庫

2009年04月08日 | 戦国時代
 武田信玄が雇った陰陽師に判兵庫という男がいる。出身は近江・石寺の出身で印や花押といった判による占いが得意だったことから人々は判兵庫と呼んだ。当時、大大名にはお抱えの占い師がいるのが常識で、出陣の時には占うのである。 戦場は死地であり、運命を決するのは運であるということから戦国武将は験かつぎをするのである。 武田信玄の作戦は極めて合理的に決めていたが、験はかついだ。 出家して晴信から信玄に名を変えたのも寿命がのび、運気が強くなるようにというものである。 だから判兵庫に100貫もの知行を与えていた。 兵庫が武田信玄に使えて20年が経つ頃、夜空に怪しい煙星が現れた。今で言う彗星の一種で半年以上もそれが見えたという。 武田信玄が兵庫に占わせたところ、とんでもない結果がでた。 これから先、日本は名門家が次々と滅亡して、身分の賤しいものが主人となり、新しいなり上がりの家が目立ち、仏教でも新宗教が栄えるというものであった。 下克上、つまり織田信長や豊臣秀吉の時代になるということである。 自分の占いに自信を持っていた兵庫は陰陽師を自分の代だけにすべく、信濃国の知行をすべて武田信玄に返上し一族は甲府に移り住んだという。 一所懸命の精神で獲得した知行、つまり領地を自ら返上した兵庫は変人扱いされたが、甲府の柳小路の一角に屋敷を買って商売を始めたのである。 その後、子に商売を任せると、自分は郷里の近江に引っ込みやがて亡くなった。 後に武田家は滅び、領地を持つほとんどの武田武士は織田信長軍に殺害されたことをかんがえれば、兵庫の処置は間違っていなかったのかもしれない。 
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