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平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

源頼義朝臣墓 前九年の役

2009年04月13日 | 陵 古墳 墓 遺跡

前九年の役と源頼義

 羽曳野市壺井には通法寺があります。 河内源氏発祥の地として知られ1043年国司であった源頼信が小堂を建てたことから始まり、ここには源頼義の墓が建てられています。

802年 征夷大将軍・坂上田村麻呂により蝦夷の反抗は鎮圧され、鎮守府が多賀城から胆沢城(いさわ)に移された。 統治は俘囚(朝廷に服従した捕われた者の意味)により行われた。 873年陸奥守阿倍貞行などはその代表といえ、俘囚首長から賄賂をとって脱税を見逃す動きが任用(諸郡に派遣された役人)に見られたときに、任用の給料から補填させることを政府に提言して認められている。鎮守府が置かれた胆沢城はこの頃堂々としたものに整備拡張され、統治のための施設になっていった。 914年には延喜東国の乱平定に功績のあった藤原利仁が将軍となり、以降高望の子孫、藤原秀郷の子孫が将軍に補任された。 武威を背景に奥六郡支配を行う陸奥守・源頼義に対して、奥六郡司・阿倍頼時(奥州藤原氏初代清衡の祖父にあたり、頼良ともいう)は業務の補佐をしている。 胆沢城と兵士制の存在は奥六郡内部の俘囚間武力紛争などを抑制する役割を果たしていたが、やがて兵士制が解体し胆沢城の紛争抑止機能がなくなると、胆沢城自身の体制も崩れて廃棄されていく。

1036年 阿倍忠良は陸奥権守に補任された。前九年の役の主役阿倍氏の登場である。 その子息で父同様五位の肩書きを持つ阿倍頼時は、受領として土着していた平永衡、藤原経清と結びつき勢力拡大に努め奥六郡に君臨することになる。1051年陸奥守・藤原登任は安倍頼良を攻めたが、頼良は俘囚を率いて登任の軍勢を破った。登任の攻撃は国家的な追討ではなく、受領と荘園側の武力紛争である。頼良は登任の武装検注部隊を手荒な威嚇で追い払い死者を出したために起こった。 政府は登任にかえて前相模守・源頼義を陸奥守に任じて鎮守将軍を兼任させた。 頼義は忠常の乱を平定した源頼信の嫡男であり、不遇の小一条院に判官代として仕えていたため相模守に任じられていた。因みに頼義の同母弟・頼清は若くして昇殿を許され、小右記や御堂関白記にもよく登場している。 1052年の頼義の陸奥守着任のころ上東門院・彰子の病悩による大赦があり、検注を妨害した安倍頼良の罪も赦免され、安倍頼良は源頼義に忠義を誓い名を頼時に変えている。

 4年の任期が終わった1055年、頼時に見守られながら京への帰途、権守藤原説貞の子・貞光が何者かに殺傷されたが、これが安倍頼時の子・貞任の謀反とされ、政府は頼義に安倍頼時追討の宣旨を下した。 安倍頼時が篭る衣川関を目指す軍勢には頼時の娘婿・平永衡、藤原経清の姿もあった。 1057年、頼時は死去し、貞任をはじめ頼時の子たちは衣川関を閉ざして頼義に抗議する構えを示すと、源頼義は貞任追討の宣旨を受けるが、征伐軍は貞任の猛攻に逃げ帰った。1062年再度貞任追討を決断した頼義は清原光頼・武則兄弟の協力をとりつけ、追討軍のほとんどは清原氏で占められていたから、もはや謀反追討を名目とした清原氏による安倍氏打倒に代わっていた。 9年に及ぶ戦争も1064年に終わり、坂東武士に棟梁として仰がれる河内源氏の地位は確立された。

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┗源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
   ┃     安倍忠良┓陸奥権守@1036
   ┗頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
     (1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
                  ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
                  ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
                  ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
                  ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
             ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
             ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
                  ┣清原武貞?
                   ┣武衡 ┗真衡-1083
                  ┗娘      ┗成衡(養子)
                   ┣-    ┣
                                    吉彦秀武 頼義娘

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河内源氏の祖・源頼信

2009年04月12日 | 平安時代

 源頼信は、平安中期の武将で摂津の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男であり、壺井を本拠地とする河内源氏の祖でもあります。兄・頼光とともに藤原道兼、道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍を歴任したあと、河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。甲斐守在任時には平忠常の乱を平定し、その後の河内源氏の東国進出の第一歩を記す。 武勇に優れ、藤原道長の四天王と称された。 平直方と争っていた忠常をあっさり降伏させた後、坂東武士たちは河内源氏と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。

清和天皇 
 ┣貞純親王873-916
 ┃ ┣源経基897-961        藤原秀郷┓
 ┃ ┣経生王 ┣源満仲912-997(摂津源氏祖)⇔藤原千晴(安和の変:源高明失脚)
 ┃源能有娘 ┣源満政?┣源頼光948-1021(藤原道長側近)
棟貞王娘   ┣源満季?┃ ┣頼国-1058(彰子,後一条に近侍)           
      橘繁古娘  ┃藤原元平娘    藤原元方┓
             ┣源頼親?(大和源氏祖,母:藤原致忠娘)
              ┃ ┗頼房
            ┃  ┗頼俊(1070後三条の勅で蝦夷征伐)
 ┏━━━━━━━━━━┛
 ┃ 
 ┣源頼信968-1048(河内源氏祖,母:藤原致忠娘 道兼,道長に近侍) 
 ┃ ┃     安倍忠良┓
 ┃ ┣頼義988-1075 ⇔ ┣安倍頼時-1057(奥六郡司)
 ┃ ┃┃(1062前九年の役)┗安倍則仁┣貞任1019-1062
 ┃ ┃┃             ┣宗仁1032-1108(娘は藤原基衡の妻)
 ┃ ┃┃             ┣娘(平永衡-1056の妻)┗娘
 ┃ ┃┃             ┃藤原経清-1062    ┣秀衡1122-1187
 ┃ ┃┃             ┃┣清衡1056-1128   ┃  ┣泰衡1155-1189
 ┃ ┃┃        ┏清原光頼┗娘     ┣基衡1105-1157┣忠衡-1189
 ┃ ┃┃        ┗清原武則┓┣家衡-1087 平氏女   藤原基成娘
 ┃ ┃┃             ┣清原武貞?
 ┃ ┃┃             ┣武衡 ┗真衡-1083
 ┃ ┃┃             ┗娘      ┗成衡(養子)
 ┃ ┃┃               ┣-    ┣
 ┃ ┃┣義家1039-1106(1083後三年の役)吉彦秀武 頼義娘
 ┃ ┃┃       ┣義宗?
 ┃ ┃┣義綱1042-1132┣義親-1108(対馬守 隠岐に配流)
 ┃ ┃┃ ┣義弘   ┃┣為義1096-1156(養子:父は義親)
 ┃ ┃┃ ┣義俊   ┃┃┣義朝1123-1160(鎌倉の館を引き継ぐ)
 ┃ ┃┃ ┣義明   ┃┃┣義賢-1155(頼長侍従)   ┣義平
 ┃ ┃┃ ┣義仲   ┃┃┣頼賢-1156  ┗木曾義仲 ┣頼朝
 ┃ ┃┃ ┗義範   ┃┃┣為朝1139-1170      ┣範頼
 ┃ ┃┣義光1045-1127┃┃┗行家1145-1186    熱田大宮司娘
 ┃ ┃┃┗甲斐源氏  ┃┣義信     義平
 ┃ ┃┃ ┗武田氏  ┃┗義俊      ┣
 ┃ ┃平直方娘    ┣義国1091-1151 ┏娘      義朝妻の姪
 ┃ ┗頼清?     ┣義忠   ┣新田義重1114-1202    ┣
源俊娘(嵯峨源氏)    ┃1083-1109┗足利義康1127-1157(鳥羽院北面)
            ┣義時?
            ┃┣義基(石川源氏)
            ┃┃┗義兼
           ┃┣義広(紺戸氏)
           ┃┗義資(二条氏)
           ┗義隆-1159
            ┗頼隆1159-?(森氏、毛利氏祖)    

 

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津山城桜

2009年04月12日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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津山城主・森忠政

2009年04月11日 | 戦国時代

 津山城は、美作一国18万6,500石を領して入封した初代津山藩主・森忠政が、鶴山に築いた平山城です。 忠政は、1603年の入封当初は、美作国院庄に入りますが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山の地を選びました。 ここには、すでに嘉吉年間(1441~44)、山名忠政が城を構えており、当時は山上に鶴山八幡宮、南の山腹に日蓮宗妙法院があり、西の山腹には八子町の集落がありましたが、これらを周辺に移転したうえで、翌慶長9年(1604)春、鶴山を「津山」と改め、築城に着手し、12年後の元和2年(1616)3月に一応の完成を見ました。 森忠政1570-1634は美濃・金山城に生まれ、本能寺の変で織田信長を守護し非業の死を遂げた森蘭丸の弟にあたります。 兄・長可の死後、家督を継ぎ、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた後、信濃川中島、美作を与えられ、津山に入っています。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死

 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)

 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃   ┣-  督姫(家康次女)
 ┃┃┏━━娘   ┣池田忠雄
 ┃┃┣━━池田輝政1565-1613(姫路城主)
 ┃┃┣━━池田元助1559-1584
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━              ↓

        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退)

        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前)
 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636
 
1510-1551    ┃  ┣登久姫
                  毛利輝元娘
    ┃          ┃  ┣熊姫 ┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
 
  ┃          ┃徳川信康 ┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
 
  ┃          ┃     ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
  ┗織 田 信 長1534-1582 

 

 

 

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2009年04月11日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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茶臼山城

2009年04月10日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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山桜

2009年04月10日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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武田松姫と兄・盛信

2009年04月09日 | 戦国時代

 武田信玄の五女を松姫という。 7歳のときに織田信長の嫡男忠信、当時11歳と婚約が整った。 織田信長は武田信玄を最大の敵として自覚していたから、決して直接戦うことはしなかった。 従ってお互いの子を縁組して同盟を結んだのである。 ところが状況が一変したのは 信長が将軍足利義昭と対立したことから義昭が信玄に対して出兵要請をしたときからである。 信玄は徳川家康の領地である遠江国に侵入し、 信長は家康の同盟軍として援軍を送ったことで武田家と信長家は決裂したのである。 忠信と松姫の縁談が解消されたのは縁組から4年後のことである。 徳川・織田連合軍は三方が原の戦いで武田軍に敗れたのであるが、 この後武田信玄は病に倒れて翌年に亡くなった。 忠信と信玄の両方を失った松姫が独身を守り続けたのは、面会をしたことがなかったのにもかかわらず、既に意識は織田信忠の妻であったからである。 織田家との和解はあるはずもなく周囲は松姫を説得したが決して受け付けなかった。 その松姫に頼もしい味方がいた。 それは信玄の五男で仁科家を継いでいた仁科盛信といって同母(油川氏出身で名は不明)の兄にあたる。 結局松姫は兄の居城である高遠城に引き取られた。 数年が過ぎ、武田信玄亡き後、いよいよ 信長は武田征伐を決意したのであるが、そのときの信長軍大将が忠信であった。 忠信は木曾義昌(信玄三女・真理姫の夫) や穴山梅雪(信玄次女見性院の夫) を裏切らせて味方に引き入れ、武田軍の戦意を喪失させ、 これに 乗じて武田勢は次々と逃亡したから、無力な状態に陥っていた。 しかしその中でも断固として抵抗を見せたのが松姫の兄・仁科盛信であった。 

 武田軍の大将・勝頼に対して盛信は副将格である。 信忠は盛信に対して降伏勧告をしたが盛信はそれを断り戦う姿勢を見せたために信忠は総攻撃を命じたのである。 この高遠城攻めにおいて信忠は大将でありながら自らが城壁をよじのぼって落城のきっかけをつくっている。 本来これは大将のとるべき行動ではない。 しかし城内の松姫を案じての行動であったという。 時間をかければ松姫が自害する可能性が大きいからである。 そして先頭きって城壁を登った信忠は不思議なことに無傷であったという。 人目でわかる鎧兜を身に着けた大将であるから集中攻撃されるはずの信忠が無傷であったのは、仁科盛信の命によって部下に信忠を攻撃させなかったからである。 もちろん松姫が慕う相手であってのことである。しかしこれが自分の敗北を招く結果となった。 婦女子を含めて武田軍は全員玉砕した。 盛信の首は信長の元に送られたが胴体は領民が丁重に葬ったという。  一方、城内には盛信の配慮によって松姫はいなかった。 この後武田勝頼は天目山で自害し武田家は滅亡するのであるが、 松姫は逃げ延びたという。 1582年本能寺の変で信忠は信長とともにこの世を去るのであるが、 その混乱の最中、松姫は信濃をでて武蔵国に落ち着き世の無常を痛感して尼となった。 信松尼である。 戦国の世に生まれてお互いが気持ちを寄せ合って入るが敵味方に分かれて悲運を背負わざるを得ない結末がここにある。 信松尼を慕って武蔵に集まった武田家臣は徳川家康から土地を与えられて八王子千人同心を結成していざというときのために将軍を守ることになる。 因みに幕末に、彼らに縁の若者が結成したのが新撰組であるという。   

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夜店桜

2009年04月08日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

 

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陰陽師・判兵庫

2009年04月08日 | 戦国時代
 武田信玄が雇った陰陽師に判兵庫という男がいる。出身は近江・石寺の出身で印や花押といった判による占いが得意だったことから人々は判兵庫と呼んだ。当時、大大名にはお抱えの占い師がいるのが常識で、出陣の時には占うのである。 戦場は死地であり、運命を決するのは運であるということから戦国武将は験かつぎをするのである。 武田信玄の作戦は極めて合理的に決めていたが、験はかついだ。 出家して晴信から信玄に名を変えたのも寿命がのび、運気が強くなるようにというものである。 だから判兵庫に100貫もの知行を与えていた。 兵庫が武田信玄に使えて20年が経つ頃、夜空に怪しい煙星が現れた。今で言う彗星の一種で半年以上もそれが見えたという。 武田信玄が兵庫に占わせたところ、とんでもない結果がでた。 これから先、日本は名門家が次々と滅亡して、身分の賤しいものが主人となり、新しいなり上がりの家が目立ち、仏教でも新宗教が栄えるというものであった。 下克上、つまり織田信長や豊臣秀吉の時代になるということである。 自分の占いに自信を持っていた兵庫は陰陽師を自分の代だけにすべく、信濃国の知行をすべて武田信玄に返上し一族は甲府に移り住んだという。 一所懸命の精神で獲得した知行、つまり領地を自ら返上した兵庫は変人扱いされたが、甲府の柳小路の一角に屋敷を買って商売を始めたのである。 その後、子に商売を任せると、自分は郷里の近江に引っ込みやがて亡くなった。 後に武田家は滅び、領地を持つほとんどの武田武士は織田信長軍に殺害されたことをかんがえれば、兵庫の処置は間違っていなかったのかもしれない。 
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富山 安田城跡

2009年04月07日 | 戦国時代

 安田城は呉羽丘陵の東南、井田川の左岸に位置する平城で1585年の豊臣秀吉による佐々成政 越中攻めの際、秀吉の本陣となった白鳥城の支城として、前田氏家臣岡嶋備中守一吉が拠った城である。 岡嶋一吉の家来、平野三郎左衛門が代官として居住していたとされます。 本丸、二の丸、右郭の三つの独立した郭から構成され、それぞれの周囲には広い水堀が廻らされている。

 

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2009年04月06日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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二塚古墳にて

2009年04月06日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 

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小山田信茂

2009年04月06日 | 戦国時代

 長篠の戦で惨敗した武田勝頼よりは以降、滅亡の一途を辿る。 勝頼の采配に問題があったのであるが、裏切り者が多くでたのも滅亡の原因である。 その裏切り者の一人として評判の悪いのが小山田信茂である。 昔、甲斐国は国中(東側)と郡内に分かれていた。 中央には山脈が走っており両国の交流には笹子峠、御坂峠、といった峠越えが必要であった。 国中を治めていたのは武田氏で郡内を治めていたのが小山田氏であり、当時武田と肩を並べる名門であった。小山田氏が武田氏に屈服したのは武田信虎の時代で、甲斐国統一がなされたのである。 屈服といっても滅ぼすわけでなく娘を与えるなどして同族に組み込み配下として使うのである。 小山田信茂の祖父・小山田信有は武田信虎の妹を娶り、両者は講和を結んだ。 これにより小山田信茂は武田家の家臣となった。 越中守・小山田信有の嫡男である出羽守の嫡男・弥三郎は若くして病死したため小山田信茂が小山田家を継ぎ、 小山田信茂の父・出羽守は武田信玄の武将として活躍していたのである。 

 信濃国の笠原清繁が関東管領の上杉憲政とくんで信玄に反抗してきたとき、信玄は上杉軍を待ち伏せして全滅させ、山本勘助の進言により上杉勢の首を敵の志賀城からみえるようにして城を落としたことがある。 このとき武田信玄が城兵を皆殺しにして信濃の民の反乱を抑えた。生け捕りにした女子供はとして売り、笠原清繁の夫人は生け捕りにして恩賞にしたのである。恩賞を与えられたのが小山田信茂の祖父・信有であった。 これは後に武田信玄を苦しめる結果となった。 信濃衆は村上義清のもとに結集して武田勢を散々苦しめたからである。 武田信玄が両輪である板垣信方、甘利虎泰を失った上田原の戦いは、この信濃衆の怒りが発端として村上義清に惨敗した合戦である。 この合戦では小山田信有の奮戦により武田信玄は生き延びたが、後に村上義清に再び惨敗した 砥石城攻めにおいて小山田信有は再起不能の重症を負って死亡した。 その孫・小山田信茂が後を継ぎ、武田信玄の家臣として有能ぶりを発揮していた。 川中島での初陣では戦功を挙げることはできなかったが、北条攻めでは北条氏照(城主氏政の弟) 率いる軍を撃破し 1572年の三方が原の合戦でも徳川軍の石川数正(長野・松本城主)を撃破している。 

 武田家と北条家は一度同盟を結んでいた。 織田信長が今川義元を桶狭間で破ったことにより武田信玄は今川家を攻めたことから三国同盟は破棄され、武田、北条家は敵対関係となった。 これ以前に小山田家は北条家から武蔵国に所領を与えられたことがあったが、三国同盟が破棄されたことで、武蔵の所領を北条に返上した形跡がないのである。 これは、小山田家は北条の家臣ではないことを意味し、もちろん武田家の家臣ではないという意識が小山田信茂にあったのかもしれない。 1582年織田信長は徳川家康、北条氏政とともに大軍で武田家領内に攻め入ってきた。 このとき武田側は、長篠の戦によって多くの武将を失っていたからもはや最強の騎馬軍団ではない。 今まで最強騎馬軍団を怖れて、一度も対等に戦おうとしなかった織田信長が攻めてきたのはそれが理由である。 早々に信玄の娘・真理姫を夫人にしていた木曾義昌が武田勝頼を裏切り、 おなじく信玄の娘・見性院を夫人としていた穴山梅雪も裏切った。 この段階では小山田信茂は真田昌幸とともに勝頼に忠誠を誓っていたが、もはや従うものは僅かな武士と女子のみで勝算はまったくない。 真田幸昌が、持ち城である上野国・岩櫃城への逃亡を勧めたのであるが、小山田信茂は郡内・小山田領内にある岩殿山城を勧めた。 このとき武田勝頼は上州よりも近い小山田信茂の城を選択した。 しかし小山田信茂の勧めは人質としていた老母を取り戻すための口実であった。 翌日勝頼が郡内への笹子峠を越えようとしたときに小山田信茂は勝頼にむけて鉄砲を放ってきたのである。 裏切りを悟った勝頼は行くあてもなく北上して天目山で自害したのである。  

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木曾義昌

2009年04月06日 | 戦国時代
 木曾義昌は、源平時代の頃最初に平氏打倒の狼煙をあげ、平氏一族を都から追い払った木曾義仲の末裔で、木曾谷を治める領主であった。武田信玄の甲斐国からみると木曾は織田信長の領地の隣に位置し、戦略上極めて重要であり木曾氏を見方につけるために信玄は三女・真理姫を木曾当主・義康の嫡男・木曾義昌に 嫁がせた。 義康が亡くなり、木曾義昌が当主になると、武田の忠実な家臣となった。 ところが信玄が亡くなり勝頼の代になると両者の関係は悪化するのである。 勝頼は長篠の戦の惨敗の汚名を返上しようと徳川、北条と何度も戦い、木曾の名門である木曾義昌に木曾谷から貴重な木材資源の供給を無償で供給したのである。 木曾義昌が最初に勝頼を見限ったのはこの頃である。 武田家がもうもたないことは明らかであったが、木曾義昌には実母、娘息子が甲府に人質としておかれており悩んだが、織田側への寝返りを決意した。 しかしこの離反が勝頼側へばれたのである。 勝頼は木曾義昌の実母、娘息子を殺害するとともに木曾征伐に出陣するが、木曾谷征伐は失敗する。 恐らく正夫人の真理姫の密告により離反が勝頼に伝えられたのであろう、 木曾義昌は真理姫に見限られ、真理姫は木曾山中に隠棲して98歳の長寿を全うした。 木曾義昌は裏切りの功で深志城を与えられたが、織田信長が暗殺されると反織田側の小笠原氏が深志城を攻め、木曾谷に退去したあと、徳川家康に臣従し1595年なくなった。 
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