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侵略戦争の支柱だった靖国神社とは?皇国史観とは?軍国主義、ナチズム、ファシズムとは?

2008-04-03 09:54:58 | 国内政治
 〈問い〉 東京の靖国神社が侵略戦争の精神的支柱だったと聞きましたが、どんな神社なのですか。(高知・一読者)

 〈答え〉 靖国神社は、“天皇のために”戦死した軍人・軍属らを「祭神」とする、特異な神社です。西南戦争の西郷隆盛ら「賊軍」や、空襲などの戦争犠牲者は祭られていません。天皇中心の国家体制の中で、天皇のための死を称揚する学校教科書や天皇の靖国神社参拝などによって、「靖国」で神と祭られることが最高の名誉と教え込まれた国民を、侵略戦争にかりたてる役割を担いました。

 靖国神社の前身は、戊辰戦争の官軍戦没者をまつるため、一八六九年に創設された「東京招《社」です。天皇制政府が全国の神社や祭神を序列化し、国家神道の体系を作り上げていく中で、一八七九年に「靖国神社」となり、一八八七年から、神職の任命権も含めて全面的に陸軍省・海軍省の管轄となります。だれを祭るかも軍が決定し天皇の裁可を仰ぐ、文字通りの「軍事的宗教施設」として、相次ぐ侵略戦争の戦死者らを「祭神」にしてきました。

 戦後、信教の自由や厳格な政教分離を定めた日本国憲法のもとで、靖国神社は国家の特別の保護から離れ一宗教法人となりましたが、遺族の素朴な心情を利用し、靖国神社の「国家護持」や公式参拝を求める勢力と結びついています。東条英機ら十四人のA級戦犯を「昭和殉難者」として合祀(ごうし)し、侵略戦争で使われた旧陸海軍の兵器を陳列するなど、その宗教活動は侵略戦争肯定の立場で彩られています。徴兵された朝鮮半島出身の人たちなど、肉親が異国や異教の「祭神」にされた遺族らの合祀とりけし要求も拒否しています。

 このような過去と現在をもつ靖国神社への首相らの公式参拝は、日本政府が侵略戦争を肯定する立場に公然と立つことを意味します。また憲法二〇条の、信教の自由や政教分離原則を侵すものです。

(出所:日本共産党HP 2002年4月27日(土)「しんぶん赤旗」)

 〈問い〉 貴紙2月10、11日「神国の誕生―再考・建国の記念日」でのべていた皇国史観はいつごろだれが体系化したイデオロギーなのですか?(福島・一読者)

 〈答え〉 「皇国史観」は、その概念を、いつの時代にまでさかのぼって定義するかによって成立時期が異なります。源泉が古事記、日本書紀にあるのは確かですが、「史観」としていつ確立されたかについてはさまざまな見方があります。また、「だれが」という点では、特定の個人がひとりで生み出したものではないため「だれが」と確定するのは不可能です。政府から民間人まで、さまざまな思惑が絡み合いながら育成され、結果的に太平洋戦争の時期にピークを迎えた「史観」としかいいようのない面があります。そして、「体系化」についてはそもそも「皇国史観」が体系的なものでなく、戦後この言葉がよく使われるようになってからも、かなりあいまいなレッテルとして機能してきたことが、最近の研究で指摘されるようになっているほどに、もともと「体系」的とは言い難い概念です。

 こうした、あいまいさ自体が特徴ともいえるのが「皇国史観」ですが、見解が分かれていることを前提にしつつも、大づかみ歴史をたどると以下のようになります。

 「皇国史観」は、江戸時代以前から複数の源流をもちながら存在していた思想を下敷きに、明治政府の指導者たちが天皇を中心とした中央集権的国家づくりをめざすなかでその基礎が形成されました。大日本帝国憲法や教育勅語によって天皇の神格化が制度化されるなかで教育面でもその普及が強化され、国定教科書でもとりあげられて幼少期から「皇国史観」が植え付けられました。

 「皇国史観」の強化時期としては、国家神道にもとづく国民教化運動の中心を担うため教部省が設置された1872年なども重要な節目と見ることができますが、1930年代なかばに「国体」をはっきりさせようとする「国体明徴運動」が起こったように、「国体」の概念自体があいまいであるという認識や矛盾が右翼勢力のなかにも長らく存在していました。しかし戦時体制が強化されていくなかで日本の領土拡張政策を正当化する論拠として機能した「皇国史観」は、時を追うごとに帝国日本の精神的支柱としての役割が強まり、37年の「国体の本義」の発行や「国民精神総動員運動」などをへて、「国民的」なものになっていきました。その理論化には歴史学者の平泉澄が大きな役割を果たしました。(金)

 〔2008・3・19(水)〕

(出所:日本共産党HP  2008年3月19日(水)「しんぶん赤旗」)

〈問い〉 軍国主義、ファシズム、ナチズムという用語は、どう使い分けられているのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 「軍国主義」とは、政治・経済・文化のあらゆる面で全国民を侵略戦争やその準備に動員する体制とそのイデオロギーを表す用語ですが、そのあらわれ方は国によって違い、それぞれ特徴があります。戦前の日本の政治体制は、その意味で軍国主義そのものでした。

 「ファシズム」の用語は、その発祥の地であるイタリアだけでなく、暴力的・専制的な政治支配を表す用語として、広くもちいられています。ドイツのナチズムも「ドイツ型のファシズム」と表現されることがあります。1930年代によびかけられた「反ファシズム統一戦線」も、第2次世界大戦の火つけ役となったドイツやイタリアなどのファシズムと侵略戦争の危険に対抗するためによびかけられたものです。

 「ファシズム」が一般的な用語となったのは、イタリアが1922年というもっとも早い段階で、ムソリーニを総裁とする国家ファシスト党がクーデターで支配を確立し、25年以降一党独裁体制をうちたて、そのすさまじさを世界にみせつけたことによります。その後、ドイツやポルトガル、スペインなど、似たような暴力的・専制的な政治支配を表す言葉として使われていきます。

 「ナチズム」は、ヒトラーを指導者とするナチス(国家社会主義ドイツ労働党)によってつくられたドイツのファシズムをさします。ナチスは、テロとクーデターなどをくりかえし、1932年11月の総選挙で第1党となり、33年ヒトラー首班の連立内閣を組織し、共産党の非合法化、さらに社会民主党など他の政党を解散し、一党独裁体制をうちたてました。ゲシュタポ(秘密警察)と強制収容所による残酷な弾圧、議会制度の廃止、極端な人種的排外主義と侵略政策などを特徴としています。

 これにたいして戦前の日本では、1931年の中国侵略戦争開始以降、軍部が発言力を拡大するなかで、軍国主義が強化されました。そして、1940年には日独伊三国同盟を結び、せまりつつある太平洋戦争にそなえて、大政翼賛会発足をはじめ侵略戦争推進のための国民動員体制をつくりあげました。

 しかし、日本の軍国主義体制もファシズムの一種か否かについては議論が分かれています。それは、イタリアとドイツの場合と日本の場合は、大きく異なっていることがあるからです。イタリア、ドイツと日本では、民主主義、議会制度の発展の度合いが違っていて、ムソリーニ、ヒトラーが政権を握るのは、テロやデマゴギーなどの暴力がありますが、それと並行して国会で多数を握るという経過をたどりました。

 これにたいして日本では、天皇が絶対的な権力を握っていて、最初から議会の権限が制限されており、ファシズム政党が政権を奪取するという経過をたどっていません。また、天皇制権力は、独占大企業とともに、封建的な性格の強い地主勢力を基盤にしていたという特徴もあります。(喜)

(出所:日本共産党HP 2007年8月30日(木)「しんぶん赤旗」)
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