うらくつれづれ

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捏造の古代史

2007-08-28 14:10:07 | 文化
2007/4/12(木) 午後 11:15

古代史での論争の一つに欠史8代というものがある。戦前、津田左右吉が唱えた説で、神武の次の第2代から第8台の崇神の前の天皇は、実在しなかったというのだ。津田の基本的思考は、記紀は、天皇制を神格化するために記述されたもので、神代編の神話は捏造、人代の記述も信ずるにたりない。その典型例が、欠史8代というのだ。津田の著書は、戦前に不敬罪の廉で発禁となたが、戦後は古代史の主流となり、1949年には文化勲章をうけた。

この、考えを受け継いだ大御所に直木功次郎という学者がいる。河内王朝説の創始者として知られる。直木は言う。戦前海軍で教官をしていた時の戦争責任をいくらかでも償いたい。そのために、皇国史観の根拠となった記紀の支配者による改竄を明らかにするのが使命だと。

津田の欠史8代の根拠は、8代が直系の系図のみで、事跡の記載がまったくないことによっていた。直木は、さらに、天皇の和風諡号の分析からそれを補強した。例えば、神武と崇神が同じハツクニシラス・スメラミコトとされることから、同一人物ではないかとしたのである。

日本神話も、天皇制を合理化するための支配層のプロパガンダであり、神話ですらないという。日本神話は、皇室の由来を首尾一貫整然としており、民衆の思想信仰から生まれたものではない。民衆に伝えれれる神話は地域と時代に従い、不統一の形をとる、という。

しかし、直木の論理は理解に苦しむ。ハツクニシラス・スメラミコトは訓で、漢字は異なる。それぞれ始馭天下之天皇、御肇国天皇と記す。神武は、国を治め始めた天皇、崇神は、初めて国を治めた天皇という意味となり、諡号ベースでも同じではなく区別されている。また、本来、カムヤマトイワレヒコ、ミマキイリヒコという別々の生前名をもっている二天皇を後世の和風諡号が同じだから同一人という結論はどこから出てくるのか。

1978年、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣は、この戦後民主主義史学の常識を打ち砕くことになった。剣には金象嵌の115文字が刻まれており、通説では、天皇に先祖代々として杖刀人使えたオワケの古墳であり、埋葬時期は、雄略朝の471年とされる。記紀より約250年早い時期の同時代国内文献である。始祖はオオヒコとされ、直系で8代の系図が記されている。

始祖オオヒコとは誰か。第10代崇神天皇は地方に4道将軍を派遣した。北陸道に派遣されたのが第8代孝元天皇の子大彦とされる。また、東海道に派遣されたのが大彦の子武渟川別命(タケヌナカワワケ)。両者は、会津の地で合流し、その地を会津を名づけたという。つまり、欠史の天皇の子の一族の系譜が最古の同時代資料として出てきたのである。しかも、崇神から雄略まで世代で数えると9代、時代間隔もあっている。

これに対して、直木はなんといっているか。「鉄剣が作られてから、200年後に、欠史8代の天皇が造作され、その後皇族と無関係のオオヒコが孝元天皇の皇子に位置付けられた。」

冗談もやすみやすみ言ってほしい。いったい、どうして鉄剣埋納200年後に無関係の見ず知らずのオオヒコを、記紀編集者が皇族にするのか。オワケも記紀編纂時には忘れ去られた人物であろう。4月9日現在のWIKIPEDIAは、もっとすごい意見も載っている。5世紀の東国の小首長が自身の系譜を造作したという。皇族と無関係のオオヒコが250年後に記紀に取り上げられる予測したことになる。

つまり、戦後民主主義史観によれば、自己の先入観に合わないどんな同時代資料がでても捏造になってしまうのである。これでは、学問とはいえない。

捏造史観といえば、和光大学名誉教授の在日考古学者、李 進煕が有名である。氏は、1972年、「近代日本 の半島進出を正当化するため、都合のいいように旧陸軍が改変した」と主張。日本、中国、韓国、 北朝鮮4か国の研究者の間で大論争となった。

公開土王碑によれば、「百済、新羅は、高句麗の属民であったが、391年来、海を渡り倭が来襲し、百済、OO,新羅を破り臣民とした」とある。李 進煕は、これを日本軍参謀による捏造・改竄とし、本来は高句麗が倭を侵攻したとした。公開土王碑の文章は明瞭な対句表現をとっており、もともとこんな李氏のアクロバティックな読みは成立しないが、つい最近チャイナで日本軍の拓本以前の拓本が発見され、捏造がなかったことが確定し、捏造は李氏の捏造と確定した。

李 進煕と同様捏造を推し進めた在日作家が、金達寿 氏である。氏は、皇別の蘇我氏を単に渡来氏族の一人に名前が類似している人がいるということのみで、蘇我氏を渡来系氏族とした。いわば、語呂合わせの史学である。韓国語との語呂合わせもしている。ワッソが日本語の「わっしょい」の語源だという語呂合わせをしたのが氏である。天王寺ワッソといういまではれっきとしたイベントが大阪にある。この説が元となり、「90年、在日韓国人系金融機関の関西興銀が中心になり、 在日コリアンの「自分さがし」のイベントとして始まった」とされる。

ハングルの成立は、15世紀である。朝鮮では、それまで自国語を記述する言語を持たず、漢文ですべてを記述した。高麗時代、一部万葉仮名類似の吏読があったが、利用は限定されていた。韓国文は、一部例外を除いて、それまで基本的に存在せず、たった25首の郷歌を除いて韓国語文学も存在しない。古代韓国語も資料が乏しく復元困難である。現代韓国語のワッソから「わっしょい」を導き出すことは、冗談以外のなにものでもない。

金達寿 氏の上を行くのが、藤村由加氏である。万葉集は、韓国語で読めるとし、NHKまでが番組でとりあげた。これは、トンデモ学説としてまじめに取り上げる学者はいない。もし本当なら、万葉集や古事記から古代韓国語を復元できるはずだ。ぜひやって欲しい。言語学によれば、日本語と朝鮮語は関係の薄い言語であるのが常識となっている。

古代史について、単なる空想に基づいた珍説が氾濫している。いったい、なぜこんな自体が生じたのか。その大本は、明らかに、捏造史観がまっとうな歴史学であるとした津田左右吉にある。資料の細部の齟齬に目をつけ、全体を捏造とする。かわりに、同じ資料の都合のいい部分のみを断片的に繋ぎ合わせ、語呂合わせを加えて、自分の感想やイデオロギーで勝手に歴史を創造する。日本史学は、この津田史学の呪縛を振りほどく必要がある。

それでは、合理的なアプローチとはどういうものか。スタートとして、まず、記紀資料について真正推定から出発すべきである。伝承には、誇張、脚色、デフォルメ、間違いが数多く含まれることは間違いない。しかし、古代に関しては、文献資料が決定的に限定される。記紀、万葉集等の国内資料と若干の外国文献に限られる。資料作成者による意図的脚色や誇張は、現代の新聞記事ですら顕著だ。古代文献でも当然あるだろう。だから、音韻・文体・書体研究等にようる文献批判に加え作成責任者の意図の推定は重要です。

問題は、最初から、特定の立場にたって安易に捏造を想定することだ。津田が確かな根拠に基づいて捏造を主張しているとは到底考えられない。思いつきと語呂合わせが根拠だ。直木に至っては、皇国史観を否定するためだと公言している。部分ではなく根幹ストーリーを否定するだけの十分な客観的証明がされた時のみに、そのストーリーは捏造と否定すべきでしょう。

文献に関しては、国内同時代資料の価値が優先する。稲荷山鉄剣はもっとも価値の高い。次に同時代外国文献です。日本では、記紀がプロパガンダであるというプロパガンダが浸透しており外国資料への過信がある。しかし、外国資料の限界を強調する必要があろう。現代ですら外国人の日本観察は玉石混交です。荒唐無稽な間違いは現在でも数多い。日本史学では、石から無意味な論理展開をする例が多いのではないか。まず、文献批判により、玉と石の分離が必要であろう。

次は、文献の解釈です。現代人の論理で資料を解釈しても無意味だあり、古代人の心で解釈する必要がある。古代人は、どのような世界観をもっていたか。これを明らかにする手がかりが神話です。神話は、この世界はどういうものであるかにたいする古代人の解答です。文献の理解は、古代人の世界観に基づかなければならない。神話は、世界観再構築の手段です。

記紀神代巻を読むと、全体が皇国史観を植え付ける目的で構成されたとは思われない。書紀では、11にも上る異本の諸説が掲載されており、それらの間に齟齬がある。首尾一貫しているとは、到底いえない。これらは、各種の言い伝えをできるだけ忠実に復元しようとした証拠である。

また、神話の大部分は、皇室とは無関係で、最後にとってつけたように天孫降臨場面がある。天孫族が天孫降臨以前を捏造する理由はまったくない。また、降臨の正当性も不明で、単に命令があったからとなっている。当然イズモは反抗したが、反抗神タケミナカタは、蟄居を条件に諏訪の地へ安堵されている。

神話の素直に読めば、国土と生命の成り立ちの説明と地・海をトーテムとするイズモ族と天をトーテムとする天孫族の抗争の物語だ。天孫族自体も海をトーテムとする海人族との合流で成立している。支配の正当化なら、こんな稚拙な話はつくらないだろう。降臨以前の神話は、日本民族の世界観の源といってよい。降臨後は、天孫族特有の始祖伝説であるが、兄弟喧嘩など素朴な物語が多く、立派な神話でしょう。

資料の解釈で重要な概念の一つは、血統です。古代の支配制度として氏姓がある。人々は、同じ血族の集団である氏に属し、その氏は、姓(かばね)により格付けされた。格付けの基準は、天皇家との血縁関係の遠近です。

記紀人代巻は、神武以降の歴史が主題です。特徴的なのは、各種物語が豪族の始祖伝承と結びついていること。記紀全体が氏族の系図の解説となっているといっても過言ではない。古代においては、どの氏姓に属するかが、社会的地位を決定する最重要要因であった。また、氏姓の明確化が政治の最重要課題でもあった。血統は複雑なネットワークを形成しており、なおかつ、社会の主要関心事として監視状況も厳しかった。江戸時代と違って、系図の偽造は極めて困難であっただろう。古代史の解釈では、系図に意義を理解して行うことが肝要だ。古代人は系図に命をかけた。

資料解釈でのもう一つの重要概念は、神祇です。古代人にとって、天神地祇は実在し、恵み、のろい、託宣する存在です。祭政一致体制は、こうしてとられた。後の律令制では、唐にならった一般行政を行う太政官と日本独自の神祇を祀る神祇官が、平行した最高国家機関として置かれた。崇神より前には、ヒメ・ヒコ体制で、託宣政治が行われてと推測できる。律令制は、崇神により行われた祭政の部分分離を、神祇官を設け制度化ものだ。

文献以上に重要なのは、考古学資料です。言葉はうそをつくが、考古資料はうそをつくことは少ない。奴国の位置は、金印で一発でわかる。伝承を否定できる証明は考古資料が最良です。残念ながら、考古資料のみで再構成できる歴史事実は、極めてすくない。むしろ、考古学資料は、伝承事実の補強として機能が大きい。遺跡があれば事実があったといえるが、遺跡がないからといって、必ずしも事実がなかったとはいえない。事実が遺跡として残りかつ発見される場合はむしろ例外でしょう。

結論は極めて常識的です。記紀には古代人の世界観・歴史伝承が反映している。記紀の伝承を否定するなら、根拠をはっきりする。資料の理解は、古代人の心でする。考古学は役に立つが限界もある。間違っても、津田左右吉のように歴史を捏造してはいけない。


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