<平安天才女流作家の類似性>
平安随筆文学の最高傑作といわれる「枕草子」は一人の決傑出した
天才女性である清少納言によって書かれたが、平安物語文学を代表
する「源氏物語」はもう一人の天才女性である紫式部によって著さ
れた。二人は水と油ほどに性格が違うようであるが、それ以外の部
分においては驚くほど類似性があるのである。
<家系、生い立ち、資質>
それは、二人の家系がともに屈指の歌人の家柄であったり、漢詩家
のそれであったりするのである。清少納言の父も紫式部の父も、一
方は三十六歌仙に名を連ね、勅撰集である「後撰和歌集」の編者で
あり、一方は当時屈指の漢詩文家である。更にともに、五位の位の
中流貴族で、地方の国司を勤める受領層である。そのため、清少納
言も紫式部もともに、父とともに任国への旅を経験しているのであ
る。片方は結婚して離婚、もう一方は結婚したが急病で死別してい
る。
<中宮出仕の経歴>
更に酷似しているのは、二人とも20歳台後半から30歳にかけて
の高い年齢になって、夫と離別または死別してから中宮に出仕して
いるにである。しかも、定子と彰子の違いはあるものの、いづれも
天皇の中宮の女房として出仕してから、その天賦の才能が花開いた
のであり、それを後押ししたものは平安時代の宮廷貴族社会そのも
のであったと思われる。
<宮仕え>
特に、枕草子の二十四段で、家庭や子供ににばかり閉じこもらず、
しかるべき家柄の娘が宮中に出仕することは社会に接する良い機会
である・・・、などといったり、百八十四段では、初めて宮仕えした
時の新鮮な驚き、定子と定子の兄伊周との会話を夢見心地で聞いて
いる様などを読むと、宮廷、しかも女にとって最高の宮仕えの場所
である中宮の局というところが、あるいはここを通じて知る貴族社
会の文化が彼女たちの天賦の才を花開かせたものと思う。そういう
意味で、もう少し時の宮廷貴族社会の裏側を理解することにしたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<前代未聞の一家三后>
藤原道長の正妻源倫子(左大臣源雅信娘)が産んだ子供は次の
通りである。
頼通(後の関白)
教通(後の関白)
彰子・・・・一条天皇中宮。
(一条天皇は叔母詮子(円融天皇后)の子。後の後一条天皇
と後朱雀天皇を産む)
妍子・・・・三条天皇中宮。
(三条天皇は叔母超子(冷泉天皇后)の子。後継は禎子内親
王のみで、内親王は後朱雀天皇との間に後三条天皇を産む)
威子・・・・後一条天皇中宮。(後一条天皇は姉彰子と一条天皇の子。
後継なし)
嬉子・・・・東宮(後朱雀天皇が敦良親王時代の)尚侍、後ち、妃。
(後冷泉天皇を産む。後朱雀天皇は姉彰子と一条天皇の子)
中宮というのは第一位の后のことであるが、並立する中宮ができ
てしまう場合には先の中宮を皇后とすることで実質並立を図った。
それを一帝二后といい、道長の娘彰子のときに前例をつくった。
一家三后というのは、藤原道長の娘3人が続けて三代の天皇の中宮
の立場を占めたことを指すが、それは同時に、藤原道長が外戚とし
ての立場を利用して親子で摂政・関白を引き継ぎ、権勢を縦にする
ことを指す。
娘 藤原彰子 → 一条天皇中宮(定子中宮→皇后)
娘 藤原妍子 → 三条天皇中宮
娘 藤原威子 → 後一条天皇中宮
近親政略結婚を重ねているため、図式にしないと混乱してしま
うが、それぞれの天皇の逝去年齢だけ載せて置くことにする。
一条天皇 ・・・ 即位7歳、 逝去31歳
三条天皇 ・・・ 即位36歳、逝去42歳
後一条天皇 ・・・ 即位8歳、 逝去28歳
<摂関政治の頂点に立った男の歌>
一家三后のとき、即ち、藤原道長絶頂のとき、道長が
わが世の春を謳歌して詠ったとされる歌
(道長)
「此の世をば 我が世とぞ思ふ望月の
(かけ)
虧たることも 無しと思えば」(小右記)
( この世は私の世だと思う。今宵の満月のように
欠けるところなく満ち足りていると思えば )
(小右記)は、従一位右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)が残した
故実に詳しい日記資料といわれる。藤原実資は、本来藤原北家嫡
流の家柄であるが、父の代から摂関の本流から外れてしまい分派
が嫡流となってしまった。それもあり、道長一族に対する批判精神
は旺盛で、この道長の歌に対しては、歌があまり優美すぎて応ずる
すべをしりません、といってやんわり応和することを辞退している。
90歳まで生きたが、本流を回復することは適わなかった。
<皇后定子の運命>
彰子と定子は親が兄弟なので、12歳違いのいとこ同士になる。道長に
よる彰子中宮立后によって、今は父親(道長の兄)が死亡し、有力な兄
弟が左遷されるに及び、定子の運命は風前の灯火となった。身内の左遷
により、一旦出家するが、一条天皇の思し召し篤く、再び戻るが、結局、
兄伊周たちの没落によって寄る辺ない、つらい生活が続いた。辛うじて
清少納言の存在が僅かな慰めであったろうと思われる。しかし、その期
間もそう長くはなかった。
清少納言が宮廷に宮仕えした期間は、僅か7~8年である。
夫と離婚し、父も死亡した清少納言、27~28歳の頃に、中宮定子
の元に出仕する。時に定子は18歳。それから定子が崩御して清少納
言が宮廷を辞去するまで、清少納言35~38歳ごろまでの話である。
歌人・漢文の家系に生まれた清少納言、父が受領層(国司)として
地方に任官した時の経験、家系から来る周囲の文人の香り、そして
本人が持って生まれた天賦の才能、これらが宮廷文化と中宮定子に
巡り合ったことによって一気に開花したものと思われる。その本質
に迫るために簡単な年表を頭に入れておくことにしたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<定子と清少納言に関係する主な年表>
982年天元5年 清少納言結婚(夫、橘則光)
986年寛和2年 清少納言父、清原元輔、肥後守に任ぜられる。
元輔は国司(受領層)で前任地は周防守、著名な
歌人でも三十六歌仙の一人、勅撰「後撰和歌集」
の撰者でもある。曽祖父も著名な歌人。
990年正暦元年、定子は15歳のとき、一条天皇が元服の際に入内
し10月に中宮に立てられた。このとき一条天皇
は11歳であった。
(6月清少納言の父元輔、任国肥後において死去)
991~992年頃? 清少納言、離婚。
993年正暦4年 4月、定子の父、藤原道隆が関白になり、絶頂の頃。
初冬のころ、清少納言が出仕か(27~28才)。
995年長徳元年 4月、定子父、関白道隆死去。
996年長徳2年 4月、定子の兄弟左遷さる。
定子出家。(清少納言暫らく里へ帰り出仕せず)。
12月、定子、内親王出産。
999年長保元年 11月、定子、敦康親王出産。彰子入内。
1000年長保2年 2月、定子を皇后に、彰子を中宮に。
12月、皇后定子、内親王出産後、崩御、25歳。
1001年長保3年 清少納言、この年、宮仕を辞去?
藤原棟世と結婚。当時清少納言30歳台中・後半、
棟世70歳ともいう。父親の面影を見たか。
晩年(不明。1020~1027年?)
京都郊外の「月輪山荘」に住む。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(参考)
1005年寛弘2年 12月、紫式部、中宮彰子に出仕?
1009年寛弘6年 4月、和泉式部、中宮彰子に出仕?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(その3)おわり
平安随筆文学の最高傑作といわれる「枕草子」は一人の決傑出した
天才女性である清少納言によって書かれたが、平安物語文学を代表
する「源氏物語」はもう一人の天才女性である紫式部によって著さ
れた。二人は水と油ほどに性格が違うようであるが、それ以外の部
分においては驚くほど類似性があるのである。
<家系、生い立ち、資質>
それは、二人の家系がともに屈指の歌人の家柄であったり、漢詩家
のそれであったりするのである。清少納言の父も紫式部の父も、一
方は三十六歌仙に名を連ね、勅撰集である「後撰和歌集」の編者で
あり、一方は当時屈指の漢詩文家である。更にともに、五位の位の
中流貴族で、地方の国司を勤める受領層である。そのため、清少納
言も紫式部もともに、父とともに任国への旅を経験しているのであ
る。片方は結婚して離婚、もう一方は結婚したが急病で死別してい
る。
<中宮出仕の経歴>
更に酷似しているのは、二人とも20歳台後半から30歳にかけて
の高い年齢になって、夫と離別または死別してから中宮に出仕して
いるにである。しかも、定子と彰子の違いはあるものの、いづれも
天皇の中宮の女房として出仕してから、その天賦の才能が花開いた
のであり、それを後押ししたものは平安時代の宮廷貴族社会そのも
のであったと思われる。
<宮仕え>
特に、枕草子の二十四段で、家庭や子供ににばかり閉じこもらず、
しかるべき家柄の娘が宮中に出仕することは社会に接する良い機会
である・・・、などといったり、百八十四段では、初めて宮仕えした
時の新鮮な驚き、定子と定子の兄伊周との会話を夢見心地で聞いて
いる様などを読むと、宮廷、しかも女にとって最高の宮仕えの場所
である中宮の局というところが、あるいはここを通じて知る貴族社
会の文化が彼女たちの天賦の才を花開かせたものと思う。そういう
意味で、もう少し時の宮廷貴族社会の裏側を理解することにしたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<前代未聞の一家三后>
藤原道長の正妻源倫子(左大臣源雅信娘)が産んだ子供は次の
通りである。
頼通(後の関白)
教通(後の関白)
彰子・・・・一条天皇中宮。
(一条天皇は叔母詮子(円融天皇后)の子。後の後一条天皇
と後朱雀天皇を産む)
妍子・・・・三条天皇中宮。
(三条天皇は叔母超子(冷泉天皇后)の子。後継は禎子内親
王のみで、内親王は後朱雀天皇との間に後三条天皇を産む)
威子・・・・後一条天皇中宮。(後一条天皇は姉彰子と一条天皇の子。
後継なし)
嬉子・・・・東宮(後朱雀天皇が敦良親王時代の)尚侍、後ち、妃。
(後冷泉天皇を産む。後朱雀天皇は姉彰子と一条天皇の子)
中宮というのは第一位の后のことであるが、並立する中宮ができ
てしまう場合には先の中宮を皇后とすることで実質並立を図った。
それを一帝二后といい、道長の娘彰子のときに前例をつくった。
一家三后というのは、藤原道長の娘3人が続けて三代の天皇の中宮
の立場を占めたことを指すが、それは同時に、藤原道長が外戚とし
ての立場を利用して親子で摂政・関白を引き継ぎ、権勢を縦にする
ことを指す。
娘 藤原彰子 → 一条天皇中宮(定子中宮→皇后)
娘 藤原妍子 → 三条天皇中宮
娘 藤原威子 → 後一条天皇中宮
近親政略結婚を重ねているため、図式にしないと混乱してしま
うが、それぞれの天皇の逝去年齢だけ載せて置くことにする。
一条天皇 ・・・ 即位7歳、 逝去31歳
三条天皇 ・・・ 即位36歳、逝去42歳
後一条天皇 ・・・ 即位8歳、 逝去28歳
<摂関政治の頂点に立った男の歌>
一家三后のとき、即ち、藤原道長絶頂のとき、道長が
わが世の春を謳歌して詠ったとされる歌
(道長)
「此の世をば 我が世とぞ思ふ望月の
(かけ)
虧たることも 無しと思えば」(小右記)
( この世は私の世だと思う。今宵の満月のように
欠けるところなく満ち足りていると思えば )
(小右記)は、従一位右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ)が残した
故実に詳しい日記資料といわれる。藤原実資は、本来藤原北家嫡
流の家柄であるが、父の代から摂関の本流から外れてしまい分派
が嫡流となってしまった。それもあり、道長一族に対する批判精神
は旺盛で、この道長の歌に対しては、歌があまり優美すぎて応ずる
すべをしりません、といってやんわり応和することを辞退している。
90歳まで生きたが、本流を回復することは適わなかった。
<皇后定子の運命>
彰子と定子は親が兄弟なので、12歳違いのいとこ同士になる。道長に
よる彰子中宮立后によって、今は父親(道長の兄)が死亡し、有力な兄
弟が左遷されるに及び、定子の運命は風前の灯火となった。身内の左遷
により、一旦出家するが、一条天皇の思し召し篤く、再び戻るが、結局、
兄伊周たちの没落によって寄る辺ない、つらい生活が続いた。辛うじて
清少納言の存在が僅かな慰めであったろうと思われる。しかし、その期
間もそう長くはなかった。
清少納言が宮廷に宮仕えした期間は、僅か7~8年である。
夫と離婚し、父も死亡した清少納言、27~28歳の頃に、中宮定子
の元に出仕する。時に定子は18歳。それから定子が崩御して清少納
言が宮廷を辞去するまで、清少納言35~38歳ごろまでの話である。
歌人・漢文の家系に生まれた清少納言、父が受領層(国司)として
地方に任官した時の経験、家系から来る周囲の文人の香り、そして
本人が持って生まれた天賦の才能、これらが宮廷文化と中宮定子に
巡り合ったことによって一気に開花したものと思われる。その本質
に迫るために簡単な年表を頭に入れておくことにしたい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
<定子と清少納言に関係する主な年表>
982年天元5年 清少納言結婚(夫、橘則光)
986年寛和2年 清少納言父、清原元輔、肥後守に任ぜられる。
元輔は国司(受領層)で前任地は周防守、著名な
歌人でも三十六歌仙の一人、勅撰「後撰和歌集」
の撰者でもある。曽祖父も著名な歌人。
990年正暦元年、定子は15歳のとき、一条天皇が元服の際に入内
し10月に中宮に立てられた。このとき一条天皇
は11歳であった。
(6月清少納言の父元輔、任国肥後において死去)
991~992年頃? 清少納言、離婚。
993年正暦4年 4月、定子の父、藤原道隆が関白になり、絶頂の頃。
初冬のころ、清少納言が出仕か(27~28才)。
995年長徳元年 4月、定子父、関白道隆死去。
996年長徳2年 4月、定子の兄弟左遷さる。
定子出家。(清少納言暫らく里へ帰り出仕せず)。
12月、定子、内親王出産。
999年長保元年 11月、定子、敦康親王出産。彰子入内。
1000年長保2年 2月、定子を皇后に、彰子を中宮に。
12月、皇后定子、内親王出産後、崩御、25歳。
1001年長保3年 清少納言、この年、宮仕を辞去?
藤原棟世と結婚。当時清少納言30歳台中・後半、
棟世70歳ともいう。父親の面影を見たか。
晩年(不明。1020~1027年?)
京都郊外の「月輪山荘」に住む。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(参考)
1005年寛弘2年 12月、紫式部、中宮彰子に出仕?
1009年寛弘6年 4月、和泉式部、中宮彰子に出仕?
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(その3)おわり
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