つばさ

平和な日々が楽しい

上士、中士、下士

2012年09月13日 | Weblog
雑誌で気に留めた老子

 上士は道を聞きては
 勤めて之を行う

 中士は道を聞きては
 存するがごとく亡(うしな)うがごとし

 下士は道を聞きては
 大いに之を笑う

 笑わざればもって道と為すに足らず
 故に建言に之有り

 明道は昧(くら)きがごとし

 進道は退くがごとし

 夷道はケワしきがごとし

 上徳は谷のごとし

 大白は辱のごとし

 広徳は足らざるがごとし

 建徳は偸(かりそめ)なるがごとし

 質真は渝(かわ)るがごとし

 大方は隅無し

 大器は晩成す

 大音は希声なり

 大象は無形なり

 道は隠れて名無し

 それただ道は
 善く貸し且つ為す


<解釈>

 上士は道を聞くと勤めてこれを行い、
中士は道を聞いても、道などあってなきが如くであり、
下士が道を聞けば、これを笑い飛ばす。
下士が笑わないようでは、そういうものは道とするに足らない。

だから昔の人の言葉にもある。

明るい道は、まるで昧い道のようであり、
進んでいる道は、後退しているかのようであり、
平坦な道は、ねじれた糸の節目のようであり、
上の徳は、谷のようであり、
大いなる白は、穢れているようであり、
広い徳は、不足しているかのようであり、
剛健な徳は、不真面目で軽薄であるかのようであり、
真実の真は、移り変わっているかのようである。
広大な四角であれば、隅というものがみえない。
大器は晩成。(※)
大きな音は、聞いても聞こえない。
大きなかたちは、かたちが無い。


道は隠れて名前も無い。

それただ道は、よく施し生成する。


<雑感>

 ここを読むと、まるで「道」というものは、「人の思う、逆に道
あり 妄想の山」と思えて苦笑してしまう。
それにしても、この章は、「故に 建言に之あり」(昔の人の言葉に
もある)というような部分といい、又どうも全体のまとまりに欠け
ているような内容といい、何か老子らしくないような感じを受ける
のだけれども、要するに、この章で述べられている事は、第一章の
「道の道とすべきは、常の道にあらず」という事と同意と考えて良
いだろうか。

※この中にでてくる、「大器晩成」、これは前後の文脈から考えると、
現代知られているような意味ではおかしくなり、前後の意味を合わせ
ようとすれば、この部分は、「あまりにも大き過ぎる器は全体が見え
ない故、完全な器とは見えない」、というような意味として書かれて
いると捉えるべきなのであろうか・・。よく分からない。


 人には人それぞれの価値観があり、その人の持っている価値観に
よっては、「道」というものも、無用の長物であるかも知れないし、
又、人によっては、「道」に対する知識など皆無であっても、「道」
そのものを生きているような人もいるかも知れない。

「道」を笑い飛ばす人、必ずしも「下士」と言えるかどうか・・。
道にとらわれなくなれば、道を聞いても笑い飛ばすかも知れない。

『いと高きと、いと低きは似た者となる』
『「煩悩即菩提」といえるは、一坂越らん人の眼よりいへる言葉なり』
これらは、沢庵禅師の言葉である。

事象に道そのものの解を求めれば、道は転々としてその姿を顕さず。
   老子 道徳経             -2002年03月18日記-より
http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/tao/tao_index_3.htm

私見
上記の中に 、大音は希声なりとある。
騒音でしかない。本人は元気良くしているのだろうが、周囲には一人や二人はいるものだ。
不愉快に感じられ、不足に思ってしまうことがある。
君子は人の美を成す:論語をおもいうかべる。

                 

君子に三畏あり

2012年09月13日 | Weblog
雑誌で目にした論語から

[白文]8.孔子曰、君子有三畏、畏天命、畏大人、畏聖人之言、小人不知天命而不畏也、狎大人、侮聖人之言、
[書き下し文]孔子曰く、君子に三畏(さんい)あり。天命を畏れ、大人(たいじん)を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず、大人に狎(な)れ、聖人の言を侮る。


[口語訳]孔先生が言われた、『君子には三つの畏れはばかりがある。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言葉を畏れる。小人は天命を知らないで畏れず、大人になれなれしくし、聖人の言葉を侮辱する。』

[解説]君子の抱く畏怖は小人にはない種類の畏れ(はばかり)であり、君子は『人智を超越した力や権威・徳』に対する敬意と畏怖の念を絶えず忘れないのである。反対に、徳や志といったものがない小人は、天命を畏怖せずに無視し、徳の優れた大人になれなれしくして、聖人の言葉を教訓にしようとする意志がないと言っている。

『論語 季氏篇』の書き下し文と解説:2より