つばさ

平和な日々が楽しい

智・仁・勇の心で語られる勧進帳とは…

2012年09月10日 | Weblog
http://ataka-no-seki.or.jp/logo60.gif

安宅の関 案内より

智・仁・勇の心で語られる勧進帳とは…

源平壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は、生来の猜疑心からこれを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州」平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしました。頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設けます。当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家。そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかります。一行の山伏姿を関守冨樫に疑われると、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとしました。しかし再び強力姿(荷人夫)の義経が疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主義経を打ち据えます。冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのでした。 この物語は美談として能「安宅」、歌舞伎「勧進帳」として長く演じられています。


弁慶の読んだ勧進帳

それつらうらおもんみれ~ば  大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき 俊乗坊重源勅命ナこうむって 無情の勧門に涙を流し 上下の真俗を勧めて かの霊場を再建せんと諸国に勧進す 一紙半銭奉財の輩は 現世にては無比の楽を誇り 当来にては数千蓮華の上に座せん   帰命稽首 敬って申~す~

智仁勇

2012年09月10日 | Weblog


ja.wikipedia.org/wiki/三徳_(儒学)より

三徳(さんとく)とは、儒学でいわれる3つの徳のこと。一般的には智・仁・勇の徳目をいう。

儒教的三徳

四書のひとつ『論語』に「智の人は惑わず、仁の人は憂えず、勇の人は恐れない」[注釈 1]とあり、孔子は智・仁・勇を大いなる徳と見なしている。また、同じく四書に数えられる『中庸』には「好学近乎知、力行近乎仁、知恥近乎勇」[注釈 2]とあって、「智仁勇の三者は天下の達徳なり」と述べ、「三達徳」(万人が修めるべき3つの徳)としている。

また、12世紀中国(南宋)の儒学者朱熹(朱子)が著した『中庸章句』には智仁勇の三徳を入道の門としている。


「三徳」の日本での展開

江戸時代初期の日本の儒者林羅山は、寛永年間(1624年-1643年)以降に著した自らの著作『三徳抄』において、朱子学(朱熹の学説)にもとづいて三徳を大まかに論じ、また、『中庸』における五達道との関連を述べながら三徳がたがいに他を含み合う関係にあると説明している[1]。羅山はさらに、神道と儒学は同根であるという「神儒合一」を説き、日本神話中の「三種の神器」を「三徳の象徴」とみなした[2][注釈 3]。

なお、南北朝時代の武将北畠親房は、『神皇正統記』(1343年)において、政道は正直・慈悲・智恵の三徳を具現化したものでならなければならないという論を展開したが、この三徳は知・仁・勇の儒教的三徳とほとんど同一視される[3]。

↑節の先頭に戻る
非表示脚注

注釈

^ 『論語』巻第五・鄕黨第九
^ 『中庸』二十章
^ 羅山はさらに、神道、王道、儒道、人道の根本は同一であり、神は心・理であるとして理当心地神道を説いた。
参照

^ 石田(2004)
^ 岩城(1979)p.108
^ 玉懸(2004)
↑節の先頭に戻る
表示参考文献

表示関連項目

614智仁勇

子日わく、知者(ちしゃ)は惑(まど)わず、仁者(じんしゃ)は憂(うれ)えず、勇者(ゆうしゃ)は懼(おそ)れず。
子罕第九

先生がおっしゃった。知恵ある者は、あれこれ、迷わない。
仁の徳のある者は憂えない。勇気のある者は恐れない。

「知者」は迷わない。人としての経験や情報が豊であれば、事に当たって迷わない。
よくわかります。
「勇者」は恐れない。これもよくわかります。
「仁者」は憂えない。どうしてでしょうか?
思うに「仁者」とは、他人への思いやりに基づく行動が出来る人です。
だから「憂い」がないのでしょう。
「憂い」とは己の心が晴れぬことであり、それは自分の方に心が向いているからです。
人に心を向けられることが出来る人には「憂い」はないということです。

岩越豊雄著『子供と声を出して読みたい「論語」百章』