旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

駅弁コレクション21 「石狩お弁当」(札幌駅)

2021-11-19 10:13:23 | 駅弁コレクション
【石狩お弁当】(札幌駅)
                           2021.11.19投稿

1978年(昭和53年)2月5日 札幌駅で購入 価格500円
                   [製造元](有)札幌駅立売商会

 石狩の慕情として、石狩川を詠む文章をが載った掛紙は、いかにも「昭和」という感じがします。
 この駅弁は、翌日、『卒業旅行』4日目1978年(昭和53年)2月5日、札幌駅から函館駅に向かう際、少し遅い朝食として購入したものと思います。

 「石狩お弁当」は、札幌駅で駅弁の製造・販売を行っている「札幌駅立売商会」の駅弁です。
 「札幌駅立売商会」のルーツは、1890年8(明治23年)の駅弁販売開始までさかのぼります。
「札幌駅立売商会」となったのは、1943年(昭和18年)と大分後になります。
 駅弁の販売や構内食堂などは『弁菜亭』の名称です。
いつから販売されているか定かではありませんが、ごく普通の幕の内弁当でした。1980年(昭和55年)10月の千歳・室蘭線電化開業で、電車特急の愛称が「いしかり」から「ライラック」になったのを契機に、この駅弁も「ライラックお弁当」に改名しました。
 現在も販売されている「幕の内弁当いしかり」は「石狩お弁当」の流れとは異なるお弁当だそうです。


 さて、『卒業旅行』についてです。
 2日目は夕方に野辺地駅を出発し、青函連絡船で函館駅へ。函館駅からは日付が変わる頃に発車する、函館本線普通列車岩見沢行(滝川行だったかな)で札幌へ。2日続けての夜行列車は、当時の学生の旅行としてはごく一般的でした。
 ところが、この時の札幌・岩見沢周辺は大雪で、後に防災史にも記録が残る『昭和53年節分豪雪』でした。
 北海道庁の『自然災害と教訓(災害年表)』には、次のように書かれています。

 2月2日から3日にかけて冬型の気圧配置となり、北西の風に乗って石狩湾の雪雲が札幌周辺に流れ込む状態が続いた。風向きは4日から5日にかけて徐々に西北西へと変わり、強い雪雲は4日は夕張方面、5日は岩見沢方面へと流れ込んだ。
 各地の降雪量は、3日は札幌で44センチ、3日から4日にかけて夕張で54センチ、4日から5日にかけて岩見沢で70センチに達した。
 3日午前6時半頃、普通列車が桑園駅で車体の下に雪が詰まって動けなくなったことをきっかけに昼前にかけて白石~桑園間の列車が完全にストップ、札幌を発着する列車に大きな影響があったほか、国道36号線では7~8キロの渋滞が発生、札幌市電も無ダイヤ状態となった。
 札幌の積雪が3日午後3時には125センチを記録したことから、札幌市は自衛隊に災害派遣を要請、4日に陸上自衛隊第11師団が出動して、札幌市内の幹線道路の除排雪にあたった。
 3日の千歳空港は全路線発着不能となり、空港では約400人が泊まり込んだ。
 また、5日は岩見沢付近が大雪となったため、岩見沢駅では線路やポイントが雪に埋まり、午前2時頃から上下線とも不通となった。この影響で四本の夜行列車が岩見沢付近で8~9時間立ち往生し、国鉄が乗客約千人にパンや食料を配布する事態となった。
この大雪の影響で、国鉄の運休728本、バスは札幌市中心に全面運休(3日)、定期航空欠航104。倉庫一部破損1棟。
 また、大雪後に小樽で屋根の雪下ろし中の女性が転落するなど落雪事故が4件発生、6名が負傷した。

 『卒業旅行』3日目の1978年(昭和53年)2月4日は、札幌駅に2時間以上遅れて昼前に到着。その先は全ての列車・バスが停まっていて、宿泊予定の小樽にも行けないということで、札幌駅の宿泊案内所で1部屋に4人泊まることができるホテルを紹介してもらいました。
 不幸中の幸い。昼頃からは天気も回復し、昼も夜も雪まつりを楽しむことが出来ました。



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