物置代わりにしていた古い家を解体するために物を整理していたら、1970年代半ば過ぎ、学生時代に購入した駅弁の「掛紙」が二十数種類出てきました。
当時は駅弁の写真を撮ってもいないので、駅弁そのものの内容はほとんど思い出せませんが、掛紙を見ていると何故そこで駅弁を買ったのかという記憶が蘇ってきました。
当時は駅弁の写真を撮ってもいないので、駅弁そのものの内容はほとんど思い出せませんが、掛紙を見ていると何故そこで駅弁を買ったのかという記憶が蘇ってきました。
「大江戸べんとう」を製造した「日本食堂調理所」は、社名を「日本食堂調理センター」「NRE大増」と変更し、NREの駅弁を製造しています。
『卒業旅行』4日目は青函連絡船で深夜津軽海峡を渡り、自宅で休憩の後、おいらせユースホステルに向かいました。
おいらせユースホステルには2泊し、冬の奥入瀬渓流を歩いたり、冬期休業中の蔦温泉旅館のお風呂に入れてもらったりと、愛知県では体験できない雪や氷と思う存分ふれあいました。
7日目は自宅に戻り宿泊。
最終8日目の1978年(昭和53年)2月9日。名古屋の戻る途中、夕食用に東京駅で購入したものです。
さすがに帰路は、野辺地駅から特急「はつかり」、東京駅からは新幹線「ひかり」を利用しました。
この掛紙のおかげで、40年前の『卒業旅行』の記憶が断片的にですが蘇ってきました。
おいらせユースホステルには2泊し、冬の奥入瀬渓流を歩いたり、冬期休業中の蔦温泉旅館のお風呂に入れてもらったりと、愛知県では体験できない雪や氷と思う存分ふれあいました。
7日目は自宅に戻り宿泊。
最終8日目の1978年(昭和53年)2月9日。名古屋の戻る途中、夕食用に東京駅で購入したものです。
さすがに帰路は、野辺地駅から特急「はつかり」、東京駅からは新幹線「ひかり」を利用しました。
この掛紙のおかげで、40年前の『卒業旅行』の記憶が断片的にですが蘇ってきました。
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