【⑨猿ヶ馬場とその周辺】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真26枚
猿ヶ馬場(平家本陣跡)、火牛の像、芭蕉塚、猿ヶ堂、日吉社跡、源平供養塔、平為盛塚、蟹谷次郎碑、飯尾宗祇の歌碑、倶利伽羅展望台
★猿ヶ馬場・・・伝説のサルを祀った「猿ヶ堂」の辺りには、峠を登ってきた馬がたくさんつながれていたところから「猿ヶ馬場」と呼ばれるようになりました。
またここに平家軍の本陣があり軍議石なども残されています。
詳細が書かれた石碑
★平家本陣跡(猿ヶ馬場)・・・倶利伽羅の峠の戦いにおいて、平家の総大将 平維盛が本陣をおいた場所。ブナ林の中に軍議石と本陣跡標柱があります。
平家軍の本陣跡標柱
軍議石です。
★火牛の像・・・猿ヶ馬場のすぐ西に、角に松明をつけた2頭の火牛の像や 源氏の笹りんどう紋 と 平家の揚羽蝶紋 を描いた扇があります。
★芭蕉塚・・・"義仲の 寝覚の山か 月かなし゛松尾芭蕉が義仲に想いを馳せ、越前燧ヶ城で詠んだ句であるが、義仲の最も輝かしい勝利を収めた倶利伽羅古戦場のことを詠ったともいわれています。
道をはさんだ反対側にも歌碑がありました。
★猿ヶ堂・・・昔 原というところに、賢い猿がいて人間の真似をして、幼児を熱い湯に入れて死なせた猿は追われ、この地に住み旅人などに悪さを重ね殺されました。元の飼い主が弔いのお堂を建てたと云う。
猿ヶ堂の隣にあった日吉社跡碑
★源平供養塔・・・高さ6.8ⅿの五輪塔。合戦において犠牲となった源平両軍の兵士の霊を弔うため、昭和49年に建立された。毎年5月12日に追悼法要が営まれています。
裏側から見ると・・・五輪の塔は上から空風輪、火輪、水輪、地輪が一式として完存するとのことです。
★平為盛塚・・・平為盛は、総大将 平維盛の武将として戦ったが、義仲軍の夜襲により敗走。翌日夜が明けるとともに手兵50騎を率いて義仲軍に逆襲したが、義仲の武将 樋口兼光により首をはねられた。この勇猛な武将を弔って建てられました。
★蟹谷次郎碑・・・義仲軍の先導を承った郷土の蟹谷次郎を讃え、源氏太鼓保存会が建立。戦勝を祝って打ち鳴らした勝鬨(かちどき)太鼓が「源氏太鼓」として伝承されている。
下後亟の新明社・・・9月に越中源氏太鼓保存会(山室直廣会長)のメンバー12人が勇ましい演奏を見せます。神事に続き、「合戦」「矢立」「大神楽」など5曲を演奏。
★飯尾宗祇の歌碑・・・゛もる月に あくるや関の となみ山゛
★源平合戦場
★源平合戦慰霊の地の石碑
★倶利伽羅県定公園 展望台にて・・・源氏ヶ峰、地獄谷方面。
【②埴生護国八幡宮とその周辺】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真31枚
埴生護国八幡宮、鳩清水、源義仲騎馬像、各務支考の句碑、聲の口(こえのくち)、将軍塚、茶臼山木曽義仲本陣跡、医王院、若宮古墳、石動駅南口
★護国八幡宮(埴生八幡宮)・・・国指定 重要文化財社殿
木曾義仲が戦勝を祈願したことで知られる古社です。義仲が奉納した戦勝祈願文も残されている。本殿は素木造りで、安土桃山時代の特徴を現し、約1,300年の歴史があります。
護国八幡宮・鳥居
護国八幡宮・拝殿
左から 本殿・釣殿・幣殿・拝殿
2羽の白鳩が上空を舞っています。
護国八幡宮・二ノ鳥居
石段・・・百三段(もとは百八段あり、108の煩悩を踏み消して神様に近づくとか)の石段は蓮沼城主 游佐慶親の寄進にかかるもの。
「みだん(三段の石段)」跡地
石段と鳩清水の案内板
★鳩清水・・・義仲が八幡宮祈願の際、白鳩の飛来があり、その案内で義仲軍が清水を得たと伝わります。・・・「とやまの名水」に指定されています。
★各務支考の句碑・・・「白鳩の 木末に涼し 神の御意」 松尾芭蕉の弟子の十哲の一人と言われた各務支考が詠んだ句碑です。
★源義仲騎馬像・・・馬上の人物像として日本最大級の銅像です。昭和58年(1983)に「源平倶利伽羅合戦800年記念」として建立され、像の重量だけでも5トンほどあります。
埴生八幡宮の周辺の見所
★聲の口碑(こえのくち)・・・義仲軍が太鼓・法螺貝を用いて一斉に鬨の声(ときのこえ)をあげました。
★将軍塚・・・倶利伽羅峠の戦いの際、義仲が鎧兜を埋めて戦勝を祈願したと伝えられています。
★茶臼山木曽義仲本陣跡・・・寿永二年倶利伽羅源平合戦の前に三万余騎がこの茶臼山に宿営しました。
★若宮山医王院・・・本尊は薬師如来と阿弥陀如来。本尊の薬師如来に関しては行基の真作とみられ、病気の回復にご利益があるとされる。他、閻魔大王が、境内にある閻魔堂の本尊として祀られている。
六地蔵尊
倶利伽羅三十三観音の内11体がここに安置されています。
★若宮古墳・・・若宮古墳は6世紀初頭に築造された前方後円墳です。全長約50m、後円部直径28m、前方部19m、くぶれ部幅11m、全体は盛土で築造され周囲には円筒埴輪が並んでいたとされます。
石動駅南口にある火牛の像
【2024 タシギ】
◎2024年9月18日 石川県にて 写真12枚
同じ場所に7羽のタシギがいました(3組のペアーと1羽)
単独でいたタシギ
チョット離れたところに2羽
その横の場所にも2羽
そしてもう2羽・・・左側のやや太り気味のタシギは嘴がやや短いように見えました
左側にヒバリシギが来ました
【2024 トウネン】
◎2024年9月25日 石川県にて 写真5枚 追加しました
◎2024年9月20日 石川県にて 写真4枚 追加しました
風が吹いてる海岸・・・波打ち際に鳥の陰無し・・・波打ち際の反対側のごみの陰に
◎2024年9月14日 石川県にて 写真3枚 追加しました
◎2024年9月6日 石川県にて 写真6枚 追加しました
◎2024年8月22日 石川県にて 写真8枚
【⑪弓の清水・般若野古戦場】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
越中浜街道を西進し、六動寺(現在の射水市六渡寺)に宿営していた源義仲の本軍は、寿永2年5月10日に般若野の今井兼平軍に合流した。
兵たちがあまりに喉の渇きを訴えたため、源義仲は地元の農夫である松原大助という男に水はないかと尋ねたら、大助は義仲の馬の前にひざまずき「ここに清き水がございます。」と答えた。
源義仲は馬を降りて弓を持ち、「私が平家の賊を滅ぼすことができるなら、泉よ、湧き出でよ」と言って弓で地面を突いたところ、突然そこから清水が湧き出した。
軍の士気を大いに上げた源義仲軍は、5月11日朝、倶利伽羅峠へ向けて般若野を出発した。
◎2024年10月9日編集 富山県 写真20枚
弓の清水、般若野古戦場、中田かかし祭り
★弓の清水・・・゛寿永2年(1183)源平般若の合戦に木曾義仲の軍勢人馬諸共渇したるところ甚だしく この土地の松原大助の進言で此の地に弓を射た所清き水湧出して渇を医て士気大いに上がったところである゛案内板より
源 義仲公 像
★弓の清水
源泉
★般若野の戦い(はんにゃののたたかい)・・・寿永2年5月9日(1183年)に越中国(富山県)砺波群般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。
寿永2年(1183年)5月9日の明け方、加賀より軍を進め般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曽義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲し、平盛俊軍は戦況不利に陥り退却した。
この戦闘は『平家物語』諸本では全く言及されず、『源平盛衰記』系テキストにのみ記されるため、実在を疑問視する説もある。
★源平般若野古戦場石碑・・・寿永2年5月9日(1183)に越中国(富山県)砺波群般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。
★中田かかし祭り(2013年9月21日撮影分)・・・源平倶利伽羅合戦場のテーマ
【⑫越後より砺波山へ】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
越後より進軍してきた木曽義仲軍は越中越後の国境であり北陸道を見渡せる地(宮崎)を通り越中国に入りました。
般若野の戦いに関する史跡として、義仲が弓で地を穿つと清水が生じ将士の喉を潤したとされる高岡市中田常国地区の弓の清水・般若野古戦場のあと、砺波平野を経て倶利伽羅への進軍しました。
これらの史跡はいずれも湧水点の連なる庄川扇状地の辺縁部に相当し、北陸道の主道であった中田通り(呉羽山・般若野・倶利伽羅峠)が通っていた。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真27枚
宮崎城址、鹿島神社、常国大悲寺観音堂、移田八幡宮、午飯岡碑、川田八幡宮、柳原石碑、鷲尾神社
★宮崎城址・・・県内最古の山城である。越中越後の国境近く、東は親不知の嶮、西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島を望み、真下には日本海側の交通幹線の北陸道をふまえる城山地塊(標高249メートル)の山頂から山腹を利用して築かれた、天嶮と交通要地を押さえた防塞である。
東は親不知の嶮
西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島
二の丸跡
宮崎城址 石塁
★北陸宮御墳墓・・・平家討伐の令旨を受けた木曽義仲が宮崎城の豪族宮崎太郎の一党とともに、後白河法皇の第二皇子「以仁王」の第一皇子「北陸の宮」をこの陣営に迎え入れて奉戴し、越中進攻と入京の足掛かりを固めた城である。
★鹿島神社・・・鹿嶋神社は、宮崎城の地に位置す るところから、要害の鬼門よけと、 尾根からの攻口を守る禁足地として 境内の鹿島樹叢とともに、歴史の城 将や加賀の前田氏に保護され、佐味 郷(朝日町内)の守護神ともなって いた。
木々に囲まれた参道の奥に、彫刻の施された、なかなかに立派な拝殿。
★弓の清水・般若野古戦場
別途 ⑪弓の清水・般若野古戦場 にて掲載しています。
よって、義仲軍は現在の高岡市般若野地区にある弓の清水(ゆみのしょうず)周辺で勝利した(般若野の戦い)後、砺波を通って倶利伽羅峠に向かったと想定されます。
★常国大悲寺観音堂・・・本堂の観世音菩薩は木曽義仲公の守護佛で寿永2年般若野合戦ののち常国山に祀ってあったものを当寺に移した。
★移田八幡宮(いかだはちまんぐう)・・・寿永2(1183)年5月、木曽義仲軍は平維盛軍と北陸で戦いとなります。木曽義仲の乳兄弟・今井兼平はここで戦勝祈願をしました。
白い⇔部分に書いてありました。
★午飯岡碑 ・・・1183年(寿永2年)木曽で兵を挙げて京を目指していた義仲は、五万の軍勢を引きつれて般若野から砺波山へと向かった。ちょうど昼ごろ小島を通りかかり、少し小高い岡をみつけ午飯にした場所。
小島には、その義仲が午飯(ひるいい=ひるめしのこと)を食べたと言い伝えられている場所があり、高さ2m、面積約50㎡の小高い石塚だったが圃場整備事業の際に取り壊され、石碑のみが元の位置から約200m東に離れた現在地に移築された。
★川田八幡宮 ・・・午飯岡で一息入れた後、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして倶利伽羅山の合戦にのぞんだといわれている。
★義仲 上洛への道・・・源義仲軍(五万)は川田八幡宮より石動の町や埴生口の道へと進む時の柳原を通るルートと小矢部川を渡り松永への鷲尾神社(鷲ヶ瀬)の道に分かれます。
★柳原石碑・・・木曽軍が控えた芹川近く。源義仲隊(二万)、樋口隊(四千)、余田隊(三千)、源行家(一万)がここを通ったと思われます。この後樋口隊は竹橋へ、余田隊は金峯坂へ。源行家(一万)は志雄山(志保山)へ。
★鷲尾神社・・・「鷲尾神社」は鷲ヶ瀬という、これまた進軍ポイントの地名の地に建つ神社。
今井隊(六千)、巴隊(三千)、根井隊(四千)がここを通り小矢部川の鷲ヶ瀬あたりを渡り、今井隊は蓮沼方面へ、巴隊は松永方面へ、根井隊は南黒坂方面へ向かった思われます。
鷲尾神社の碑・・・後ろの公民館は「鷲島公民館」
鷲ヶ瀬の碑・・・鷲瀬碑のある鷲尾神社付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。
【2024 スーパームーン】
2024年9月17日は、年に一度しかない天体ショー「スーパームーン」です。
一年で最も大きく、また、最も明るく見える満月が東の空から上ってきました、スーパームーンと呼ばれる一年で最も大きく見える満月です。
これは、地球に最も近いために大きく見えるもので、最も遠い今年2月の満月と比べて14%ほど大きく、さらに、近いため、30%ほど明るく見えるということです。
◎2024年9月17日 富山県にて 写真3枚
今回は曇り空、お月様が出ていません出したが・・・短い間ですが薄雲りの中、幻想的な姿を見せてくれました。
すぐ雲に隠れてしまいました
【⑭巴御前終焉の地】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。
その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。
「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。
平家追伐のため信州より兵を起し、越後を経て、越中に入った木曽義仲の妻巴御前は、砺波山の合戦(1183)で活躍したが、京都に入った義仲もやがて都を追われ敗死後は和田義盛を頼った。
しかし、義盛も和田の合戦で戦死したので、かつて砺波山で一緒に戦った友人である石黒太郎光弘を頼ってこの地を訪れ、福光城の近い一角(天神町)に草庵を建て尼僧となり「兼生尼」と号し定住した。91歳で入寂と伝えられる。
その跡に1本の松を植えたが、樹齢を重ね巨松となり傘状に広がり地域の人達の幸せを祈ってくれている。この地を巴塚と称し町民に親しまれている。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真19枚
福光駅前の石碑・・・「巴御前終焉の地」と刻まれています。
石碑裏面の「巴御前の軌跡」
福光で兼生尼として晩年を過ごし(57歳~91歳)宝治元年(1247年)10月22日に91歳で亡くなりました。
街中の「巴塚の松」と「巴塚」
巴御前(兼生尼)の遺体が葬られている「巴塚」
樹齢約750年を超える老松の「巴塚の松」
巴御前 辞世の句・・・「まぼろしよ 夢よと変わる 世の中に など涙しも つきせざるらん」・・・いにしえの街道、峠(天池)茶屋跡にて
福光城址栖霞園・・・福光城は石黒太郎光弘が在城していました。
福光城址の石碑
栖霞園の入口
小矢部・倶利伽羅源平の郷 埴生口にある「巴の松」
福光の巴塚公園の巴松の苗を植樹されたもの。