Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ゴミを捨てるという行為

2007-05-30 08:27:39 | ひとから学ぶ
 「ゴミゼロへの誤った理解」で触れたように、ゴミを捨てないというのが当たり前でありながら、わざわざそういう意識を高揚させるような運動が展開されるところに、この国がいかにゴミ問題に揺れているかということがわかる。「鳥居のご利益」のように、そんなモラルの下がった国民に対してのだましの手が意外に効いているという話を聞くが、はたしてそんなレベルなのか、なんて思ってしまうわけだ。

 先日(5月25日)NHKの特報首都圏という番組で「街にあふれる持ち込みゴミ」というテーマをやっていた。最近高速道路のサービスエリアや、コンビニのゴミ箱に家庭ごみを持ち込む人が多い、と始まった番組であるが、「最近」という時間を表す言葉は適していないとわたしは感じた。もう昔からのことだ。ゴミ袋を有料化してもっと高くすればゴミが減るかといえばそうでもないという。むしろよそへ持っていっては捨てる行為が横行して、ちまたには不法投棄が増えるかもしれない。正直言って、本来のゴミ箱の趣旨とは違ったゴミ箱利用をしたことのある人はほとんどだと思う。「そんなことは絶対しない」と言い切れる人はいないと思う。高速道路のサービスエリアにあるゴミ箱に、高速道路のサービスエリア意外で購入、あるいは持ち込んだゴミを少なからず経験しているはずだ。同じようにコンビ(同系列ではない場合も該当するだろう)によそで買った空き缶やゴミを捨てることはあるはずだ。それでもこの場合は、あくまでも分量的にいけば、あくまでも持ち合わせていたゴミを少し整理した程度だと思うが、問題にされているのは、家庭で処理できるはずのゴミを持ち込むというケースだ。以前にも触れたが、上司が単身赴任先から自宅に帰る際に、「高速のサービスエリアに一週間分のゴミを捨てる」と平気で言っているのを聞いて、「あんたがおかしい」と言ったがらちが明かなかった。

 サービスエリアでは、しばらく前からゴミ箱の数を減らした。広大なエリアからゴミ箱が減ったから、ゴミ箱に行こうと探しても「えーあんな遠いところなの」なんて思うことがよくある。わたしのような面倒くさがりやには、それだけでめげてゴミ箱まで行くことをあきらめてしまう人もいる。そういう意味では不用意にゴミ箱をいくつも置くことも無いのだろうが、それでも持ち込む人は多い。ただ10年ほど前よりは少し改善されているのではと思うことも多い。かつてサービスエリアやコンビニのゴミ箱といえば、ゴミが溢れんばかりになっている姿をよく見た。もちろん、それだけコンビに側が気を使って、いっぱいにならないうちに処理しているとも考えられるが、それでも見苦しいほどに満タン状態という姿を見なくなっただけ、大量のゴミを持ち込む人がいないということなんだろう。

 ゴミを捨てるという行為は、けして昔はなかったわけではなく、土に返るという意識なのか、大昔から盛んに捨てられてきた。ところが土に返らなくなったから、そこらで捨てるわけにはいかない。もうひとつ、捨てても捨てても湧き出てくるからそのままそこいらに捨てていたら大変なことになると気づいたわけだ。一応見えないようにしまいたいわけだ。ゴミをなるべく出さないことが一番なのだが、ゴミは次から次へと湧き出てくる。そういえば、自分の捨てるべきエリアではなく、よそのエリアに行ってゴミを捨てる人もいる。大量だと中を調べられてへたをすると捨てた人が割り出されるが、わずかなら気がつかない。そんなゴミといえば、できればこっそり捨てたいような怪しいものだったりする。けっきょく自分の空間から見えなくなればよい、なんていう代物なのだ。

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