Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

座って小便

2007-02-20 08:16:31 | ひとから学ぶ
 2/18のフジテレビの「スタメン」おいて、男が小便をする際に座便器に座って用を足す人が多くなってきていることについて触れていた。このことについては、今までにこのブログでも触れてきており、それについてはHPに「便所のはなし8題」としてまとめてある。とくに第4章では「便座器のもたらした変化」と題し、座便器のことを書いている。便所という世界は、どちらかというと闇の世界の話だから、気がついたら3割、4割の人が座便器に座って用を足していた、という感じなのかもしれない。わたしにしたら意外な数字とは思わないのだが、ビックリしたからテレビ番組で扱っているのかもしれない。これが闇ではなく、人目につく世界のことだったら、「そんな恥ずかしいことするなよ」と男性同士で冷ややかに見られたりして、これほど急激に広まらなかったのかもしれない。

 座便器に座って用を足す以前に、男性トイレでズボンを下げて用を足す人を若い人たちに見ていた。なぜ社会の窓を使わないのか、と考えたものだ。スタメンにおいての激論のなかで、爆笑問題の田中裕二が、トイレに行って社会の窓を開けるより、ズボンをさっと下げて座った方が〝早い〟と主張していた。これに対し、同じ爆笑問題の太田光は〝そんなことはない、座るほうが時間がかかる〟と言う。実はおおかたの立小便派の男性は、太田光に賛同するだろう。ところが、ズボンを下げて立小便をする姿を見ていて思ったのは、この若者たちは、トイレで用を足すことをササッとすばやくしようとはまったく思っていないのである。悠長にズボンを下ろして用を足すと、再び悠長に身なりを整えているのである。トイレではなく化粧室といわれる所以なのかもしれないが、ようは「急いで用を足す」という言葉などそこにはないのだ。実は、今の子どもたちにはもしかしたら社会の窓を開けるより、ズボンを下ろす方が早いと思っている人が多いかもしれない。いや、それを意識したことはないかもしれないが、実際社会の窓を開けるという指先の細かい動作よりも、ズボンをガバッと下ろす動作の方が不器用になった今の時代に即しているはずだ。一昨日も妻との会話で話題にあがったのだが、今の子どもたちが剣道をするなんていうと、防具を付けるだけで大変な時間を要してしまうというのだ。だから楽チンに取り付けられるマジックテープ式が汎用化してきているという。世の中すべてが細かい作業をさせなくても良くなっているから、古い時代の感覚で捉えても今の時代には当てはまらないことはたくさんあるのかもしれない。こんな状況だから、今の子どもたちが成人するころには、たち小便する男性は2割とか3割しかいない時代がくるかもしれない。

 服装のユニセックス化なんかもこうした事象への手助けをしているような気がしてならない。服装がユニセックス化する正確な理由は知らないが、兼用することができる、あるいは省力化できるというメリットはあるかもしれない。日本のように住宅事情が〝狭い〟空間の有効利用から始まると、どうしてもトイレそのものもユニセックス化が求められる。かつて別々であった際にはそれほど意識しなかったことが、兼用化によって意識せざるを得なくなるわけだ。とくに陰部をさらけ出すという闇そのものの世界だけに、汚い=闇に吸い込まれる、見たいな感情がどこかにあるに違いない。男同士ですら小便の飛び散ったようなトイレで用を足すのは、はばかりたいほどだ。それを異性である女性がそんな空間で陰部をさらけ出すともなれば、嫌に決まっている。トイレを我慢したくなるのもわかる。ようは兼用化したことによる闇世界の広まり、とそんなことを思うわけだ。男性トイレを女性に兼用化させることはできないから、女性のトイレを男性に兼用化させた。いわゆる男性空間の省力化、リストラだったわけだ。

 さて、だれでも座って小便をするようになると、下着から男性用の窓が消えるかもしれない。すでにこの窓を利用していない人たちは、座って小便をしなくとも、かなり増えているように思う。前述したように、若者はすばやく用を足すことすらしなくなった。「座って小便をする」という事象以外にも、細かいところを探っていくと、かつてでは考えられないような変化が知らない間に進行しているかもしれない。

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