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続・伊那市諏訪形の御柱祭

2022-10-14 23:05:43 | 民俗学

 わたしの日記は「検索」して過去のデータを思い起こすために記している意味が強い。ようは紙ベースでは検索できないため、早く過去を呼び出す意味で重宝している(と明確に言えるほどデータは蓄積されていないが)。「書き続ける」という意識に負荷をかけるために公開しているともいえ、そうでもしなければ三日坊主で終わる。ここに記す内容は、そうしたデータ蓄積という補足的なものである。

 この1日に伊那市西春近諏訪形の御柱祭が行われたことは、「伊那市諏訪形の御柱祭」で触れた。諏訪神社以外の小宮などで行われる御柱についても、御柱の年にクローズアップされて多々報告されてきているところだが、とりわけ下伊那地域では『伊那』(伊那史学会)において度々報告されてきたところである。今年も同9月号が「御柱祭特集」として組まれ、コロナ禍の御柱が報告されている。一覧には37か所の御柱が記載されているが、大小さまざまなため一概にその数をもって述べることはできないが、「中止」されたところが3箇所、「不明」1箇所どあり、そのほかは実施されたようだ。もちろん通常開催は難しかっただろうが、御柱に関しては「中止」が少なかったことは言えそうである。

 『伊那』同様に『伊那民俗研究』(柳田國男記念伊那民俗学研究所)の本年発行29号も昨年御柱祭を前にして実施されたてな民俗研究集会「御柱祭と諏訪信仰」の報告を兼ねた特集号であった。その中で桜井弘人氏は「諏訪系神社における御柱祭の受容と展開」を報告しており、各地の御柱祭についてその起源について言及している。諏訪神社の御柱はともかくとして、周辺の御柱について地域ごと捉えており、とりわけ『伊那』で捉えている下伊那地域の御柱について同様に37箇所の御柱を一覧で示し、御柱の開始時期について最も古いものでも松川町御射山神社の享保7年(1722)とし、江戸時代中期以降に始まっていることを指摘している。いっぽう諏訪地方の小宮の御柱については、「八剱神社が式年造営の一環としての御柱曳行を早くからおこなったのを除けば、摂社・末社であってもその開始は江戸時代、さらには明治・大正・昭和にまで下るのではないか」と指摘している。またその周辺地域、ようは下伊那地域以外の県内の御柱については、「小野神社と弥彦神社、沙田神社は、諏訪大社の御柱年を避けて翌年に開催することからみて、いち早く開始されていたと推測できる。だが、諏訪大社の御柱祭に信濃国挙げて関与した時代に、自社でも開催したとは考えがたく、江戸時代より以前にさかのぼるとはおもえない」と述べ、宮木諏訪神社や千鹿頭社、須々岐水神社は江戸時代以降領主が深くかかわって開催されるようになったもので、それ以外のものは民衆が主体となって江戸時代中期、後期になって始まったものと推測している。ようは言い伝えでは「古くから」と言われていても、江戸時代以前にさかのぼる御柱は限られるということである。

 諏訪大社の影響のあった上伊那地域では、意外に御柱祭を実施する神社は少ない。諏訪に隣接する辰野町が特別に盛んに映るが、前掲の桜井弘人氏の論文にも上伊那地域で取り上げられている御柱祭は、辰野町の弥彦神社と宮木諏訪神社のもののみ。残念ながらそれ以外の辰野町の御柱祭と、伊那市周辺の御柱祭は取り上げていない。その起源がまったくわからないということも要因かもしれないが、伊那市諏訪形の御柱も江戸時代以前のことははっきりしない。あるいは明治以降に始まったものなのかもしれない。

続く


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